仏在世の頃、爪長梵志という外道がおりました。甥の舎利弗と論争するため、外道の幾多の経典を学び、理解し通すまでは爪を切らぬと誓い、人々から爪長梵志と呼ばれておりました。世俗の無意味な論争に取り組む外道でさえ、かくも精進し、長年にわたり爪を切る暇もないほど修行に励んだというのに、我ら仏弟子はどのように精進しているでしょうか。毎日お茶を飲み、世間話をし、街をぶらつき、掃除をし、食事をし、親族と団欒し、養生のためヨガや気功を練り、道友と世間話に興じ、自慢話をし、十分に眠り、一日のうちどれほどの時間を修道に充てているのでしょうか。
世の中で外道たちの修行のように精進する仏教徒がどれほどいるでしょうか。恐らくごく僅かでしょう。世間を見透し、世俗を捨てて修道に励む外道のように生きる仏教徒がどれほどいるでしょうか。これまたごく僅かでしょう。三人寄れば師あり、我々は真に外道に学ぶべきです。彼らの長所や美点、世俗を捨てる精神、精進努力の精神、世間を淡く見る精神を学ぶべきです。仏教徒がこのような精神を持ち、正しい法義を備えるならば、悟りを得ざることは難しいでしょう。
かくも精進する外道が仏に出遇えば救われ、戒行清浄となり、禅定を具え、智慧も優れ、適切な仏法に触れれば精神を凝らして思惟し、たちまち証果を得るのです。あれは真実の証悟であり、単なる理解ではありません。我ら仏教徒にそれができましょうか。戒律を守れず、禅定も修められず、大乗の法群に長く触れても証悟の縁にすら届かず、せいぜい理解する程度です。内道と外道の差はどれほどでしょうか。一部の者は外道を軽んじていますが、あのような外道をもし私が教化するなら、いかに容易く、心を悩ますこともなく済むことか。ただ大いなる志を発起できないだけです。仏教徒の発する大志もまた進退を繰り返し、確固たるものではありません。
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