世俗界において仏法に触れていない人々の中には、身体を生滅無常のものと見なし、実体のない仮の器として捉える者もおります。彼らは身見を断ったのでしょうか。衣食住に執着せず、病にも頓着しない者もおりますが、それで身見を断ったと言えるでしょうか。いずれも違います。彼らが身体を顧みないのは、貧困や吝嗇などの因縁による制約、あるいは他の追求に心を奪われ暫時色身を顧みない状況にあるためです。一旦条件が整えば、再び色身を珍重し、貪愛し、その享受に拘るようになるのです。
身見を断つには全面的な検証が必要です。戒・定・慧によって、三十七道品によって、心念と心行の両面から考察しなければなりません。部分的現象で全体を推し量ることはできません。生活条件の不足や無明、あるいは身体関連の他の事柄への注意力転移などにより身体への執着が薄れている場合でも、物質生活への執着を捨てきれず三悪道の業を造るならば、それは身見を断ったことにはなりません。
全ての身口意の行いは種子を形成します。あたかも記録文書の如く、神通力を有する者には常時閲覧可能で、この記録は永劫に消滅しません。ただし業種は消滅し得ます。執着には執着の業種、無執着には無執着の業種が存在し、如来蔵の記録方式が異なれば果報も異なります。つまり同一の行為でも心行が異なれば、如来蔵の記録が変わり、業種が変化し、業報も異なるのです。
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