楞伽経原文:大慧よ。この如来蔵識蔵は、一切の声聞・縁覚が、心に想い見るところである。自性清浄ではあるが、客塵に覆われているがゆえに、なお不浄と見える。如来たちはそうではない。大慧よ。如来たるものは、現前の境界を、掌中にある阿摩勒果を見るがごとくに見る。
略釈:ここで説かれているのは、声聞と縁覚(辟支仏)は、如来蔵について心で想いを巡らせることしかできず、心の中で「如来蔵は自性清浄心であり、真実の我である」と憶測しているに過ぎないということである。彼らはそのような知見や観点を持っているだけで、真に証得することはできず、大いなる心を発した菩薩のみが証得できるのであって、推測や憶測をしてはならない。声聞・縁覚たちは自性清浄心の存在を知ってはいるが、無始以来の客塵の煩悩に覆われ、それを見ることができない。したがって彼らの知見はまだ不十分であり、小乗の法眼清浄は証得しているものの、如来蔵の法についてはまだ法眼を生じさせておらず、その知見は依然として清浄ではない。
したがって、声聞・縁覚は第八識である如来蔵を証得することはできない。もし証得できるならば、それは阿罗汉・辟支仏・菩薩であり、種性が転換したことになる。
諸仏・如来たちはそうではない。諸仏如来にとって、一切の法が現れるときはすべて現前の境界であり、すべて現量で観察される。想像や思惟を要せず、ましてや憶測など全く必要としない。それは完全に現量の境界であり、境界が目の前に現れれば即座に知ることができる。あたかも自らの掌中にある阿摩勒果を、明晰に、透き通り、澄み切って、真に清浄なものとして見るがごとくである。
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