如来蔵は衆生の心行を了知するが、実は意根の心行のみを了知する。意根の心行が現起する時に初めて如来蔵はこれを了知し、前六識等の種子を生じさせる。一切の法は意根が主導して促すものであり、意根が選択造作しなければ六識は生じない。故に如来蔵は必ず意根に呼応し、必ず意根の心行を了知した後に、六識を生じさせて意根の心行を完成させる。如来蔵の一切法における運作は主に意根との相互作用にあり、同時に業種に随順する。業種が成熟する時、意根が需要とするか否か、好むか厭うかに拘わらず、如来蔵は必ず業縁を現行せしめる。
業種とは心所法の運行の記録であり、身口意行は即ち心所法である。一切の行為は心所法である。心所法が清浄ならば行為も清浄となり、業種も清浄となる。心所法が変化すれば業種も変化する。身心は相応じ、例えば瞋心所法が現れれば身体に変化が生じ、軽安禅定の心所法が現れれば身体に変化が生じる。心所法を変化させるのは誰か。それは心所法自らが心所法を変化させ、自らが自らを改めるのであり、仏が改めるのでもなく、如来蔵が改めるのでもない。故に修行は如何なる場合でも自ら修めるものであり、誰かが代わってくれると期待すべきではない。加持を受ければ即座に悟りを開けるなどと思うべきではない。そのようなものではないのである。
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