原文:大王よ、知るべし。諸根は幻の如く、境界は夢の如し。一切の諸法は、ことごとく空寂なり。これを空解脱門と名づく。空にして空相無きを、無相解脱門と名づく。もし相無ければ、則ち願求無し。これを無願解脱門と名づく。かくの如き三法は、空と共に行じ、涅槃の先道なり。決定して法界の如く、周遍して虚空際に及ぶ。この譬喩において、かくの如く知るべし。
釈:大王は知るべきである。六根はあたかも幻化の如く、種々の境界は夢の如し。一切の法はことごとく空寂であり、これが空解脱門である。諸法は空であっても空相は無く、これを無相解脱門と呼ぶ。もし一切の法に相すら無ければ、いかなる願求も生じるべきでなく、これを無願解脱門と呼ぶ。かくの如く空・無相・無願の三解脱門は空と共に存在し、涅槃への道を歩むのである。このように修学すべきである。涅槃を求めんとするならば、まず知らねばならない。一切の法は実相法界であり、阿頼耶識の一真法界であって、十方の虚空際に遍満することを。そして後に初めて涅槃を証得し得るのである。これらの譬喩については、このように了知すべきである。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根はすべて幻化によって現れたものであり、目が見る種々の境界、耳が聞く種々の境界、六根が対する境界は、夢の中の事柄の如く真実ではない。我々はなお何を追求しようとするのか。一切の諸法はことごとく空寂であり、空でないものは無く、寂滅でないものは無い。何一つ存在しない、これが空解脱門である。一切法空を証得し、空であると知れば、解脱する。空にして空相無きを無相解脱門と名づく。空なる法には、見るべき・説くべき・指し示すべき相貌が無い。空すらもまた空である、これが無相解脱門である。空は何の相も無く、空すらも無いと知れば、心はさらに解脱する。もし空の相すら無く、空すらも無いならば、どうして空に執着できようか。もし相が無ければ即ち願求も無し。もし相すら無ければ、我々に何の願求があろうか。何も求める必要は無い、これが無願解脱門である。願求が無ければ心は一層解脱し、空・無相・無願の三解脱門を成就すれば、即ち聖人である。空・無相・無願の三法は空と共に行じ、空から離れず、また空相も無く、三者は互いに分離せず、層を重ねて究竟の解脱に至る。我々が涅槃に入り、不生不滅を求めんとするならば、このように修行すべきである。絶え間なく空の心行を生じさせ、ますます空へと進み、空すらも空とすることで、初めて空は清浄俐落となる。もし心にまだ空が存在するならば、それは真に空ではない。なお空の心を滅すべきである。涅槃の道においてはこのように修学すれば、涅槃を証得し得る。涅槃とは解脱であり、涅槃とは不生不滅であり、涅槃とは寂静無為であり、涅槃とは大自在である。
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