瑜伽師地論は、凡夫の地から四種の聖人の地に至る漸修の過程を説くものである。その中で最初の声聞地は非常に詳細に述べられており、瑜伽師の修証の過程は迅速ではなく漸進的である。これによって次第に禅定を獲得し、貪瞋痴などの様々な煩悩の心の行いを降伏させ、改めることができ、その後初めて我見を断ち、無我を証得し、聖賢の品格を備え、聖賢の事業を行うことができるのである。初果を証得したとしても、貪瞋痴が極めて重く、悪事を働かないものはないような悪人ではない。
漸修によってこそ煩悩を次第に降伏させ、心性と品德を高め、人格と菩薩格を次第に具足することができる。
一方、迅速な解悟や最終的な答えを速く知ることは、この功徳が少しもなく、煩悩を降伏させる間もなく、心性と品格を高めることができず、その結果名声だけを得て実質を伴わず、得るものより失うものが多い。それはちょうど飯を炊くことや薬を煎じることに似ており、早く火を通すことと弱火でじっくり煮るのとでは、その味と栄養価が全く異なる。
速さを求めることは、深刻な功利心であり、求める心、得ようとする心であり、世俗心、生死心である。無我の心、無為の心、解脱の心、無求の清浄心を生み出すことができず、往々にして本道に背き、逆効果となる。
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