煩悩を調伏し、心性を高め、聖賢の品格を養うには、四念処観から始め、様々な止観から始めなければなりません。止観の道は長く、速やかなものではなく、全方位的・全角的に観行し、修止し、自心を調伏することで、初めて人は次第に変容し凡胎を脱し、聖骨を具え、内から外まで改め新たになり、真の聖賢となり、衆生の導首となるのです。自ら泥濘から足を抜き出してこそ、有縁の衆生を導き、引き上げて泥沼から脱出させることができます。もし自らが泥沼から足を抜き出す力もないならば、どうして他人を泥沼から引き上げることができましょうか。
仏は、仏法全体が一仏乗の法であると説かれ、二も三もありません。声聞地の修証は一乗法の一部であり、最も基礎的な部分でありながらも極めて重要な部分です。この中での修行は、煩悩を調伏・断除し、次第に聖性・仏性に相応する過程であり、欠くべからざるものです。この基礎を固めずに、ひたすら高層ビルを建てようとすれば、たとえ建てられたとしても空中楼閣であり、遅かれ早かれ必ず崩壊します。ゆえに一切の菩薩の修行は、着実に行い、基礎を固め、戒定慧の修行を重視し、貪瞋痴を勤めて滅することに励み、ひたすらスローガンを叫ぶだけで実質的な修行手段がなく、自らを正しく実修していると言うようなことがあってはなりません。
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