衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月14日    金曜日     第1 回の開示 合計1607回の開示

解悟とは紙上談兵です

問:なぜ仏法の修行が全て解悟に偏ると、真の仏法は次第に消失してしまうと言われるのでしょうか。

答:例えて申し上げます。例えば皆が車の運転技術を学ぶために本を購入し、あるいは直接指導を受けて知識を習得したとします。全員が技術を理解したと思い込み、運転できると自覚する。しかし実際に車を運転した経験がなく、ハンドルを握ったこともない。その後、これらの人々が再び本を著し、他人に運転技術を教えるのです。このような状況が続けば、運転技術は後世に伝わる過程でどのように変質するでしょうか。この技術は実用に値するものでしょうか。将来、実際に車を運転する人は存在するでしょうか。真に運転技術を体得した者は現れるでしょうか。このままでは運転技術は失伝し、机上の空論となるのではないでしょうか。

仏法も同様です。解悟に終始し実証を伴わなければ、伝承を重ねるうちに解悟する者さえ存在しなくなり、仏法自体も変質し、真実の教えは失われてしまいます。これは仏陀が最も看過できぬ事態であり、真の仏弟子にとっても痛恨の極みであります。

悟りの理解と解悟には本質的な差異が存在します。解悟とは如来蔵の大まかな作用を推測するようなもので、現量観察によって得られたものではなく、眼前の物体を見るような明瞭さを有しません。推測による理解は意根が未だ明らかでなく、心に確信が定まらず、容易に覆されます。この状態では如来蔵の具体的な働きを観察できず、真実の大智慧を生じることはできません。一般的な理解や知識の習得は、実践的な思惟や観行参究の段階に至っておらず、如来蔵の運行に対する了知性は皆無で、解悟の域にも遠く及ばず、ましてや証悟との隔たりはさらに大きいのです。

——生如法師の開示
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