衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月14日    金曜日     第4開示 合計1610開示

修行は次第に従うべし

通常、修行は段階を踏んで行うものであり、一つの段階ごとに修行内容があり、修行のレベルが異なれば、修行の内容も異なります。凡夫には凡夫の修行方法があり、賢人には賢人の修行方法があり、聖人には聖人の修行方法があります。凡夫が聖人の修行方法を用いることは絶対にできません。差が大きすぎて、全く力が入らないのです。

凡夫はただ五蘊の生滅変異・無常を観行し、四聖諦の苦集滅道を観行するか、あるいは参禅して明心を求めるしかありません。凡夫は八地菩薩が証得した境界、例えば無所住・無所着、例えば一切を空却する、例えば取相分別しない、例えば任運自然などを観行することはできません。

凡夫と悟り後の賢人は、まさに有心で相に着いて善法を修する段階にあります。賢人はすでに初歩的にいくつかの相を破っていますが、そのレベルはあまりにも浅いのです。この時に相に着かず、相の上で一切法を認識しないというのは、できないばかりか、傲慢で尊大になり、因果を撥無することにもなります。例えば凡夫が肉を見たら、これは衆生の肉であると思い、慈悲心から衆生の肉を食べるべきではないと考える、これが正しい修行方法です。この時に肉を空と見なし、無相と見なし、真如と見なして、食べても食べないのと同じだと思い、それで大口に食べる、そして自分は真如の境界に入ったと感じる、実は貪欲の境界に入っているのであり、これは誤った修行方法です。

例えば凡夫が男相・女相を見た時、「私は男女の相を空にして、すべて真如と見なす」と言って、心の中で自分にはもう男女の相がないかのように感じ、それで遠慮なく交際する、結果として定力が著しく不足し、二人とも軌道から外れてしまう。このような修行方法は、悪取空とも呼べ、罪過は非常に大きいのです。異性が自分に特別な要求をしてきた時、自分は相に執着せず、相に着かず、相手を空と見なし、真如の化身と見なして、それで縁に任せる。その結果、菩薩戒の十重戒を犯すことになり、地獄行きは確実です。いわゆる「縁に任せる」というのは、必ず縁に任せるだけの能力を持たなければなりません。内心で空を証得し、本当に心を空しくして心を起こさず、相に着かないことができる、初禅の定力と初地以上の菩薩の智慧がなければ、誰もただ考えるだけで、言うだけで、実際にはできないのです。やはりしっかりと戒律を守って修行し、修行の境界や段階を飛び越えてはなりません。

凡夫が過去に造った罪業を懺悔したいと思うなら、自分の悪い心と悪い行いに対して取相懺悔し、悪い心行を改めるべきです。しかし無相懺悔を行い、無理に「すべての煩悩は菩提であり、すべて真如の相である」と考え、それを証得できないのに、そう思うことで心安らかになる。しかし心安らかになったと思っても、罪業は依然として存在し、消えておらず、果報は逃れられません。このようにするのは悪取空であり、果報は少しも誤魔化されません。

私たちが仏法を学び修行するには、段階と秩序があります。いい加減にしてはなりません。菩薩にできることは、凡夫には必ずしもできないのです。異性に対して縁に任せて度するというのは凡夫の能力の及ぶところではなく、それは深い禅定を持つ地上の菩薩のなすことであり、凡夫がそれをすれば、必ず三悪道に堕ちます。

現在の仏法はまったく混乱しています。多くの人は意識心が非常に賢く、地上の菩薩や仏陀の修行境界も理解できるので、地上の菩薩が修行すべきことを口先だけのものとして、自分にもできると思い込んでいます。しかしそれは可能でしょうか?あなたは善財童子ではないのです。善財童子のような善根と福徳がなく、しっかりと定を修め観行することもせずに。

私たちの修行は口先だけの習慣を改めるべきです。仏法は実修し、そして実証しなければなりません。実修実証はスローガンではなく、実修には具体的で実行可能な方法が必要です。それがなければ、それは実修ではなく、実証もできません。たとえ仏の言葉を語ることができても、それはただの言葉に過ぎず、何の役にも立ちません。スローガンを唱えているだけです。一歩一歩、足を地につけて歩まなければ、希望はありません。

——生如法師の開示
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