衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月20日    土曜日     第2 回の開示 合計932回の開示

意根の無我

末那識の無我とは、第一に末那識を実在と認めないこと、第二に五蘊を実在として自己と認めないこと、第三に六識の機能を実在として末那識自身の機能と認めないこと、第四に第八識の機能を末那識自身の機能と認めないことである。

人我執を断じる時、末那識は五蘊十八界が我ならざることを知らねばならず、次第に五蘊十八界への執着を断ち始める。五蘊のこの機能も我ならず、あの機能も我ならず、五蘊の全ての機能が我ならざることを観じ始める。かくして徐々に末那識の五蘊への執着性を断除し、四果阿羅漢となる。末那識が五蘊への執着性を断除した後、初歩的な無漏に達すると、その遍計所執性は一部消滅する。四果阿羅漢以前には、末那識の自我への執着性を調伏し続け、初果を得て初果人となる時から徐々に少しずつ調伏し、四果阿羅漢に至って我執を断尽する。

初地菩薩は一分一分に法我執を断じ始める。法我執を断ずるには無生法忍の智慧を獲得せねばならず、一切法において無我性を証得し、一切法に自主性なく、全て阿頼耶識によって幻化されたものであることを悟る。一切法に確かに我の存在せざることを観じ、全て我ならざることを証する。末那識はこれら一切法が我ならず、我の所有するものでもないことを認め、かくして徐々に一切法への執取性を断除する。末那識が徹底的に無我に達し、一切法に執着せず、心内が空々浄浄となって初めて仏と成るのである。

——生如法師の開示
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