衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月16日    日曜日     第1開示 合計1618開示

貪愛の煩悩をいかにして断つか

修行は貪愛を断つためのものであり、貪愛は六根が六塵に触れるところで生じるため、六根が六塵に触れるところで貪愛を止めなければならない。眼根が色塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。耳根が声塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。鼻根が香塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。舌根が味塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。身根が触塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。意根が法塵に触れるとき、心に貪愛が生じなければ、貪愛は止まる。心の内なる貪愛の習気に従えば、本来は色・声・香・味・触・法に対する貪愛が生じるはずであるが、修行に力があるため、貪愛の現れを制止し、貪愛を止める。これが修行の功であり、貪愛がなければ修行の徳である。こうして修行によって功徳が生まれる。徳とは品性、德行であり、心の善なる行相である。善があれば解脱へと向かい、善があれば自在に近づく。貪・瞋・痴の煩悩は束縛であり、解脱せず、自在ではない。

功徳は容易には現れない。無始劫以来の貪・瞋・痴の煩悩は根深く、習気は深重で、降伏し抜除するのは容易ではない。長久にわたる多劫の思惟観行を経て、貪愛の苦を観じ、少しずつ貪愛を降伏させなければならない。もし貪愛の苦を知らなければ、貪愛を降伏させることはできない。なぜなら、衆生は皆、楽を好み、楽へと向かい、苦を避けるからである。現前に苦を観察して初めて、苦を避け、苦患を消除しようと選択する。したがって、修行の第一歩は苦を観察し、苦を認識し、苦を感知することである。そうして初めて、心を六塵に触れるところから引き戻し、六塵の深みに入り込まなければ、貪愛の苦は生じない。第一歩の苦を観じ知ることがなければ、第二歩の集を断つこともなく、第三歩の滅を慕うこともなく、第四歩の道を修めることもない。したがって、一人の者が道心を発起することは非常に容易ではない。それは貪愛の習性によるものである。

一切の衆生を概観すると、六塵の楽触を貪愛しない者はおらず、六塵への触受を放棄しようとしない。実際には、貪愛はすべて苦受であり、楽受はない。結果として、衆生は皆、貪愛の苦の中にありながら自覚していない。無数の仏法を学ぶ者も、学ぶ目的は依然として世俗の生活を享受し、楽受を追求することである。しかし結果はすべて苦であり、ただ無始劫以来、この理を認識する智慧がなく、盲目的に楽を追求しながら、真の楽を享受したことがない。これが愚痴である。愚痴の煩悩は最も脱しがたく、世尊が口を酸っぱくして諭しても、衆生は依然として愚痴無明の中にある。修行は容易だろうか。非常に容易ではない。だからこそ、最初に我見を断つことの難しさは天に登るよりも難しいと言われるのである。この点を直視し、事実に基づいて、慢心すべきではない。

——生如法師の開示
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