衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年06月16日    日曜日     第2 回の開示 合計1619回の開示

我執とは何でしょうか?

慢は七種に分かれる:慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑劣慢・邪慢。これらはすべて我というものによって生じる慢であるから、我慢が根本であり、これによって他の慢が生ずる。ゆえに他の慢は修行によって先に断除し、我慢は最後に断除する。小乗では四果阿羅漢の位において我慢を断ずるが、なお我慢の習気が残る。大乗では初地菩薩の位において我慢を断ずるが、習気は残り、この我慢の習気は八地菩薩の位に至って初めて断尽する。これを見れば習気の根深さがわかる。

我慢の習気とは何か。例えれば、木の上から嫌悪すべき虫が体に落ちてきた時、普通の人は無意識に即座に振り払う。考える必要もなく、思案せず、無意識に素早く反応する。これは意根の自我保護の習性であり、思索を挟まずに危険を回避し、自らが嫌うものを拒絶する。これが我慢の習気である。なぜ衆生は皆この習気を持つのか。衆生の意根が無始劫以来、五陰身を我として執着し続けてきたため、この習気が根深く染み付いている。たとえ我見を断じ我慢を除いたとしても、意根の深層にはなお五陰我の概念と念いが残り、習慣的に五陰の影が消え去っていない。七地・八地の菩薩にして初めてこの我慢の習気を断除できる。阿羅漢は我慢が現行しないようにできるが、初地以上の菩薩になって初めて少しずつ我慢の習気と貪瞋痴の煩悩の習気を断ち始める。阿羅漢が断ずる煩悩も現行する煩悩であり、すべての習気は初地以上の菩薩位から漸次断除され始める。

我々の心中の煩悩は非常に深重で、その数も極めて多く、断除が難しい。しかし真に難しさを言えば難しくもない。勇猛精進に修行すれば、煩悩は朝日が雪を融かすように消え去る。故に難易は全て自心にかかっている。悟道の者が禅宗開悟の難易を形容したように、龐蘊は「難しや難し、十担の麻油を樹上に攤くが如し(参禅開悟は十担の胡麻油を木の上に広げるようなもの)」と言い、龐婆は「易しや易し、百草の頭に西来の意有り」と答え、霊照は「難しとも易しとも言わず、飢れば飯を食い、倦めば眠る」と述べた。三人の開悟に対する三種の感覚、三つの見解がある。故に一切の法の難易は人にあり、人の根機の利鈍による。難易は相対法であり、仮相であって、真に難易が存在するのではない。

無上菩提は世間の一切の邪見を破ることができる。邪見はどこから来るか。これも我見から生じる。凡夫が果位を証得する前は、全て我が存在すると考え、色身を我とし、五陰を我とする。凡て我を基点とする様々な知見は、全て邪見に属する。仏法を修証すれば一切の邪見を破り、有情衆生の一切の罪悪を滅除できる。初果を証得すれば、我に関する邪見など三つの結縛を破り、無始劫以来造った三悪道の業は消滅し、未来永劫三悪道に堕ちない。残る業報はただ人中に報い、人中で苦を受ける。人中での苦しみがいかに甚だしくとも、三悪道での苦しみに比べれば楽であり、苦痛も軽微である。

初地に証入していない者を凡夫異生と称し、初地を証得した者を聖人とし、異生性を滅除して生死の悪業を造作しない。生死の染汚業種を断じていない衆生は全て異生に属し、この寿命が終われば次の生命が続く。ただし異なる時、異なる場所に生まれ、あるいは天上、あるいは人間界・地獄・餓鬼道に生ずる。これを異時異処に生ずると言う。初地菩薩と凡夫異生はともに分段生死を持つ。例えば人間が一世を百八十年、あるいは千八百年生き、寿命が尽きれば次の世がある。生死が分段されているので分段生死と言う。初地菩薩が天界に生を受ければ寿命は極めて長く、人間界に生を受ければ凡夫衆生と同じ寿命で分段生死があり、願力によって畜生道に生を受ければ畜生同様短い寿命で分段生死がある。分段生死の他に変易生死がある。所謂変易生死とは寿命が極めて長いが、如来蔵心に生死の染汚種子が未だ全て滅除されず、なお生死の業を感得し得て、永遠に生死の仮相を滅除できず、心中の生滅種子が仏地に至る前に断除できないため、変易生死があるのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

貪愛の煩悩をいかにして断つか

次の記事 次の記事

出家と在家の違い

ページのトップへ戻る