衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月16日    日曜日     第3 回の開示 合計1620回の開示

出家と在家の違い

まず、家とは何か、その概念について述べましょう。家の第一の要件は、家族全員が共に生活を営む住居が存在することです。第二に、父母や配偶者、子孫といった家族が互いに寄り添い、支え合う関係が必要です。第三に、飲食や起居、娯楽など世俗的な共同生活を共有すること。第四に、共同生活の基盤となる財産と経済的基盤を有すること。第五に、共通の生活目標と規範を備えていること。

これらの条件が揃って初めて家庭が成立しますが、これは娑婆世界の欲界人間に特有の形態です。なぜなら人間界の衆生は欲望が強く、男女の情事を他者の目から隠すために屋根が必要とされるからです。そもそも娑婆世界の人類は、二禅天から地に降りた天人たちが地肥を貪り、体が重くなって天界に戻れず、地上に留まったことに始まります。当初の人類には男女の区別がありませんでしたが、次第に情愛が生じ、男女が分化しました。彼らは情事を他人の目から隠すため住居を築き、家族を形成し、子孫を育むようになったのです。

このように家の成立は男女の存在と情欲に不可分です。情欲が薄い欲界天や北倶蘆洲には家庭が存在せず、色界天人は男女相も情欲もなく禅定にあり、経済活動も不要です。したがって家庭は娑婆世界人間界に特有の概念であり、出家という行為も同様です。家庭がなければ出家の概念は生じず、経済的束縛もないため在家とは見なされません。

諸仏の浄土は天界を超えた環境にあり、男女相も世俗生活も存在せず、一切が衆生済度の仏事です。故に仏菩薩が剃髪や法衣といった娑婆世界の出家相を示す必要はなく、その色身も束縛を受けません。あらゆる相は出家相であり、在家の要素は皆無です。

我々娑婆世界の衆生は十方諸仏や等覚・妙覚菩薩、十地菩薩と同列視できず、五濁悪世の者が出家相を取らずとも僧侶と同等とは言えません。実際、在家生活は修行に多大な制約を生じ、多くの者が世俗の煩悩に苦しみます。幾度出家を志しても業縁に引き戻される例も少なくありません。在家と出家の差異は甚だ大きく、安易に同等と見做すべきではありません。自らを省みて、僧侶と同等と称する高慢を戒むべきです。

——生如法師の開示
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