『雑阿含経』第五巻109
いかにして識が即ち我であると見るか。六識身――眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識身を指す。この六識身の一つ一つにおいて我であると見ることを、識が即ち我であると名付ける。いかにして識が我とは異なると見るか。色が我であると見、識が我の所有であると見る。受・想・行が我であると見、識が我の所有であると見る。これを識が我とは異なると名付ける。
まずこの「我」という概念を明確にしなければ、五蘊十八界が無我であることを如実如理に観行することはできない。何が我であるかを知らなければ、いかにして観行によって我見を断じることができようか。例えば、部隊が装備を整えて敵を殲滅しに出発しようとする際、敵が誰でどこにいるかを知らなければ、いかにして出発して敵を殲滅できるだろうか。
「私」とは誰であるかをはっきりさせてこそ、この「私」に我見を断じさせることができる。「私」とは誰であるかを知らなければ、いかにしてその「私」に我見を断じさせることができようか。ちょうど蛇を打とうとする時、蛇の急所(七寸)がどこにあるかを知らなければ、いかにして蛇を打ち殺すことができるだろうか。
上文を解釈する
解釈:いかにして識が即ち我であると考えるのか。識とはいわゆる六識身――眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識身である。この六識身を我であると見るのは誰か。もちろん第七識である意根であり、意根が六識身を我(自分自身)と見做しているのである。
仏はこの六識身について、六識身を我(自分自身)と見、六識身を我(自分自身)であると認めると説かれた。この知見・観点を持つものが意根であり、これを識が即ち我(自分自身)であると名付ける。
六識身が我(自分自身)とは異なると見るのはどういうことか。それは意根が色蘊を我(意根)であると認め、識蘊を我(意根)の所有であると認めることを指す。あるいは受想行蘊を我(意根)であると認め、識蘊を我(意根)の所有であると認めることを指す。これを識蘊が我(意根)とは異なると名付ける。
仏はこの小段落において、確かに「私」とは意根であり、意根こそがいわゆる「私」であると説いておられる。意根は色受想行識を自分自身と見做すか、あるいは自分自身の所有する機能作用と見做す。したがって我見を断ずるとは、このいわゆる意根である「私」に我見を断じさせ、意根がもはや色受想行識を私および私の所有と見做さなくなることによって達成されるのである。
ここに見られるように、仏が阿含経を説かれた際、意根について語られていないわけではなく、意根が私であると説かれていないわけでもない。初めから終わりまで、仏は意根に我見を断じさせ、色受想行識を私とする我見を断じさせることを意図されていたのである。
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