原文:諸比丘よ、いかなるを見諦の聖弟子が上衆の邪を断ち、未来世において永く再び起こらざるとなすや?無明なる未聞の凡夫は色を見て我と為し、我に異なり、我は色に在り、色は我に在りと見、受・想・行・識を見て我と為し、我に異なり、我は識に在り、識は我に在りと見る。
「いかにして色を見て我と為すや?地の一切処入を得て正受と為し、観じて已りて、このように念う:『地は即ち我なり、我は即ち地なり、我及び地は唯一にして二つ無く、異ならず別れず』と。かくのごとく水・火・風・青・黄・赤・白の一切処入を正受と為し、観じて已りて、このように念う:『行は即ち我なり、我は即ち行なり、唯一にして二つ無く、異ならず別れず』と。かくのごとく一切処入において、一々に我を計る、これを色即ち我と名づく。いかにして色を見て我に異なると為すや?もし彼が受を見て我と為し、受を見て我と為し已りて、色を見て我が所と為すか、あるいは想・行・識を見て即ち我と為し、色を見て我が所と為すなり。
「いかにして我の中の色を見ると為すや?謂わく、受を見て我と為し、色は我の中に在りと見る。また想・行・識を見て即ち我と為し、色は我の中に在りと見る。いかにして色の中の我を見ると為すや?謂わく、受を見て即ち我と為し、色の中に住し、色に入り、その四体に周遍すと見る。想・行・識を見て我と為し、色の中に住し、四体に周遍すと見る、これを色中の我と名づく。
「いかにして受を見て即ち我と為すや?謂わく六受身――眼触より生ずる受、耳・鼻・舌・身・意触より生ずる受なり。この六受身を一々に見て我と為し、我は受なりと、これを受即ち我と名づく。いかにして受を見て我に異なると為すや?謂わく色を見て我と為し、受を見て我が所と為す。謂わく想・行・識を見て我と為し、受を見て我が所と為す、これを受異我と名づく。
釈:仏は説きたまう:諸比丘よ、如何なるが我見を断ちて後の見地なるや?聖弟子らは最上なる根本の凡夫の邪見を断ち、未来世において永遠に再び生起せざるか?
無明にして教えを聞かざる凡夫は色蘊を見て我(意根)なり、あるいは我(意根)の所有なり、我(意根)は色蘊の中に在り、色蘊は我(意根)の中に在りと為す。無明にして教えを聞かざる凡夫は受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を見て我(意根)なり、あるいは我に関わるもの、我(意根)の所有なり、我(意根)は受想行識蘊の中に在り、受想行識蘊は我の中に在りと為す。
如何なるが色蘊を見て我(意根)と為すことなるや?地大の一切処入を得て正受と為し、地大を観行して已りて、このような念いを為す:『地大は即ち我(意根)なり、我は地大なり、我と地大は一体にして二つ無く、何らの差別も無し、地大は即ち我の所有なり』と。
かくのごとく水・火・風・青・黄・赤・白を観行し、一切処入を正受と為し、観行して已りて、このような念いを為す:『色身の運転は即ち我(意根)なり、我は色身の運転なり、我と色身の行は一体にして二つ無く、何らの差別も無し、色身の運転は即ち我の所有なり』と。
かくのごとく、色の一切処入において、一々に計って我(意根)と為し、我はこの一々の処入なりと、これが凡夫の謂う名色を以て我(意根)と為す我見なり。
何故に意根たる我は色身の運転を以て我及び我の所有と為すのか?それは意根が色身を運転せしめんと欲し、また意根が色身の運転を主導するが故なり。色身が運転した後、我は運転せりと為し、能く運転する功能作用は我の所有なりと為す。
例えば、睡眠が足りた後、意根が醒めんと欲し、色身を活動せしめんと欲し、色身を起床せしめんと欲す。ここに於いて第八識は意根に随順し、六識を生じ、色身は起床す。ここに於いて意根は我は起床せりと為し、起床の活動は我意根の所有なりと為す。ここに意識の関わる事は無し。何となれば醒める前には全く意識無ければ、即ち意識が起床を欲したに非ず、意識が主導して起床したに非ざるなり。
また例えば、昏倒した後、六識は悉く消失し、昏倒の中にて、意根は第八識に随って色身と六塵境界の状況を了別し得る。一旦意根が色身が活動運転し得ると為せば、意根は努めて色身を活動清醒せしめんとす。この時には意識無く、意識が醒めんと欲したに非ず、全く意根が主導して色身を活動せしめんと欲するなり。色身が活動し得るに至れば、意根は我は活動し得ると為し、我は醒め得たりと為す。同時に意根は能く活動する功能作用を以て我の所有と為し、色身を以て我と為す。
如何なるが色蘊を見て我に非ず我の所有と為すことなるや?もしこの人が受蘊を見て我(意根)と為し、受蘊を我と為し已りて、色蘊を見て我の所有と為すか。あるいはこの人が想蘊・行蘊・識蘊を見て我(意根)と為し、かくのごとく受想行識蘊を我と為し已りて、色蘊を見て我の所有と為すなり。
如何なるが我(意根)の中に色蘊有りと見ることなるや、即ちこの人が受蘊を見て我(意根)と為せば、色蘊は即ち我(意根)の中に在りと為す。また想蘊・行蘊・識蘊を見て即ち我(意根)と為せば、色蘊は即ち我(意根)の中に在りと為す。
如何なるが色蘊の中に我(意根)有りと見ることなるや?即ちこの人が受蘊を見て即ち我(意根)と為し、受蘊は色身の中に住し、色身に入り、色身の四肢頭脚全身に周遍すと為す。これが凡夫の謂う名色の中に我(意根)有りと為す見解なり。
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