観行によって我見を断ずるとは、色受想行識の五蘊を我(意根)と見做さず、また我所と見做すこともできず、色蘊は我ではないが我が所有し使用できるものだと言うこともできず、受想行識蘊は我ではないが我が所有し使用できるものだと言うこともできないのである。色受想行識が即ち我であるというのは誤った見解であり、我が色受想行識を所有できるというのも同様に誤った見解である。これらの知見は全て滅除し、心から掘り出さねばならない。
我所が存在すれば我が存在し、これは我見が断たれていないことを意味する。色受想行識の機能を我の所有とするのは誰か。もちろん意根である。意根は無始以来ずっとこれらの機能を使用し利用し、自らがこれらの機能を有すると考えてきた。これらの機能があるが故に我慢と我執が生じ、生死の煩悩が絶えないのである。
意根がこれらの機能を有しようとする時、第八識は惜しみなく意根のために色身と六識を生じさせ、これらの機能を現起させる。すると意根はこれらの機能を我であり我のものと見做し、全てが第八識のものであることを知らない。こうして生死流転は止まない。生死流転の苦悩から脱するには、必ず意根にこれらの考えと知見を断じさせ、意根がこれらの機能を我であり我のものと見做さないようにせねばならない。そうすれば意根は無我となり、次第にこれらの機能を利用して煩悩業を造作しようとしなくなり、次第にこれらの機能への執着と貪着が軽減され、生死業は消滅するのである。
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