衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月18日    火曜日     第1開示 合計1626開示

我見も我が見るものも断じてこそ、真に我見を断ずる

観行によって我見を断つとは、色受想行識の五蘊を我(意根)と見なすこともできず、また「我所」と見なすこともできない。すなわち、色蘊は私ではないが私が所有・使用できるものだと言うことはできず、受想行識蘊は私ではないが私が所有・使用できるものだと言うこともできない。色受想行識がそのまま私であるという見方や知見は誤りであり、私が色受想行識を所有できるという見方や知見も同様に誤りである。これらの知見は全て滅除し、心から取り除かねばならない。

「我所」が存在すれば、そこに「我」が存在することになり、それは我見が断たれていないことを意味する。一体誰が色受想行識の機能を「私の所有するもの」と見なしているのであろうか。もちろん意根である。意根は無始以来ずっとこれらの機能を利用し、自分がこれらの機能を有していると思い込んできた。この機能を有しているがゆえに、我慢と我執が生じ、生死の煩悩は絶えることがない。

意根がこれらの機能を欲するとき、第八識は惜しみなく意根のために色身と六識を生み出し、これらの機能を現前させる。すると意根はこれらの機能を「私である」「私のものである」と見なし、それらが全て第八識のものであることに気づかない。こうして生死流転は終わることがない。生死流転の苦悩から脱するためには、意根にこれらの考えと知見を断たせ、意根がこれらの機能を「私である」「私のものである」と見なさないようにしなければならない。そうすれば意根は無我となり、次第にこれらの機能を利用して煩悩の業を造ることを望まなくなり、徐々にこれらの機能への執着と貪着が薄れ、生死の業は消滅するのである。

——生如法師の開示
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想薀・行薀は我に異なる真実の義である

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初果を証得すれば五蘊無我、即ち法眼浄を得る

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