衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年06月19日    水曜日     第3 回の開示 合計1630回の開示

声聞者は真我第八識を実証することができません

信は証に等しからず、仏語を信ずることは仏語を証得することに等しからず。五蘊無我を信ずることは、五蘊無我を証得することに等しからず、第八識が真我であると信ずることも、第八識が真我であることを証得することに等しからず。もちろん信には段階の問題もあり、浅い層は意識の信、深い層は意根の信である。意根が信じたとしても証得に等しからず、信と証の隔たりは甚だ大きいこともあれば、僅少であることもある。これは誰が信ずるかによる。

声聞人は仏語を信じる故に、真我不滅の第八識が存在することを知るが、心量の問題により実証できず、一旦実証すれば即ち大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩に等しからず、もし声聞人が無余涅槃に入らぬ心を発せば、通教の菩薩とは成り得るが別教の菩薩ではない。第八識を証得して後、初めて別教の菩薩となる。

声聞人は仏語を聴く際、即時に第八識が真我であることを知るが、更に詳細な内容は知らない。第八識に対する実際の観行がなく、五蘊と第八識の真実の関係を知らず、第八識が如何に五蘊の存在と作用を生じ維持するかを知らない。

声聞人は仏語を信じた後、禅定において五蘊十八界の無常苦空無我性を具体的に微細に観行し、遂に五蘊十八界が確かに苦空無常無我であるとの結論を得る。これにより五蘊を我と認める我見を断除し、法眼浄を得て、初歩的な解脱の機能を受用する。

声聞人は第八識を実際に観行したことがなく、観行する能力もないため、五蘊が即ち第八識であるか否かを確証できない。大乗菩薩が第八識を証得して後、初めて五蘊十八界のこの我が生滅の仮我であり、確かに第八識ではないことを如実に観行できる。これ以前は全て仏語を信じ、仏陀の説くところを如実に信ずるに過ぎない。

菩薩が無生法忍を証得し、具体的な道種智を得る時、漸く五蘊十八界が実際には第八識であり、第八識の一部分の功用であることを如実に観察できる。現前に第八識が如何に具体的に識種子と四大種子を流注し、如何に業種子を流注して連続不断の五蘊十八界の功用を形成するかを観察し、これにより漸く一切法が皆第八識であることを証得する。衆生は一真法界に在り、一切法が皆第八識真如である。これ以前は全て相似の理解推論推測想像と仏語を信ずるに過ぎず、実証とは言えない。

声聞が第八識を実際に観行せず、第八識を実証しない限り、「五蘊と第八識は一ならず異ならず」との結論を出すことは不可能である。これは実証した大乗菩薩のみが得られる確固たる結論であり、声聞人がこの結論を確証すれば、直ちに大乗実義菩薩となり、別教の菩薩となる。

声聞人が観行参究により五蘊十八界が空であることを証得する時、この空は第八識の空性体性を指すものではない。声聞人はこの智慧を持たず、毀壊敗壊の空、不究竟の空のみを証得する。大乗菩薩こそ五蘊が第八識の空性であることを証得し、五蘊全体を第八識の空性として観照でき、これにより初地に入り唯識種智を得る。その観行智慧は極めて深遠であり、禅定もまた甚深である。

第八識を実際に証得していない時は、現前に五蘊が果たして第八識であるか否かを観察できず、第八識が五蘊身中で如何に運作するかを観察できなければ、五蘊と第八識が異なるか否かの関係を観察できない。想像したものは実証に等しからず、推理したものは実証に等しからず、仏語を信じ仏語を復唱することは実証に等しからず。

もし論理推論推量等を以て実証と為すならば、命終の時、非常に大きな問題が生ずる。その時は一切が自らが平常に想像認識していた様とは異なることに気付くであろう。その時如何に慌て騒いでも、最早如何ともし難い。最も恐るべきは、自らが従来学び認めた理を信じなくなれば、仏法を誹謗する心を生じ、然る後に悪道に趣くことである。たとえ大乗菩薩であっても、大乗を修学することを主としながら大乗の法を証得せず、五蘊が究竟的に第八識と如何なる関係にあるか、五蘊が究竟的に如何に第八識と異ならず異なる関係にあるかを如実に観察できなければならない。推理は実証に代われず、そうでなければ多少の小才ある世間人でも第八識を証得し、皆大乗菩薩となれるはずである。三宝に帰依せず、戒定慧を修せず、仏の那些の前行法は全て無用となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

仏菩薩の加持

次の記事 次の記事

父子合集経選講(一一〇)

ページのトップへ戻る