衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2019年06月22日    土曜日     第2 回の開示 合計1635回の開示

意根における我見

意根は六根の一つであり、十八界の一つです。五蘊と十八界には一対一の対応関係があります。私が我執に囚われる時、意根の自我が頭をもたげ、六識に現れるものは全て意根の心行であり、意根の心性が表れます。人の心理を観察できる者は、本質的な意根の心行を見抜けますが、観察できない者は六識の表面的な作為に惑わされます。今考えると、意根と意識を区別できなければ、我見を断つのは確かに困難です。

六根を観行する際、意根を観じることができます。それは意識を生起させる根源であり、同時に主導する識です。この主導識の不断の変異性、不固定性、不自在性、滅する性質を観じれば、意根が永遠に存在せず、その心行が常に変化する無常のものであることを知り、従って自我ではないと悟ります。

意識の機能作用が自我でないことを確認するには、まず意識が確認し、禅定における深細な観行を経て、意根が意識の観行を思量参究し、最終的に意根も意識の機能作用が自我でないことを確認します。

常に主導する意根の自我も、その虚妄無我を確認し、空なる無常であることを知る必要があります。意識を生起させる心の根源である意根も非我であり、まず意識が確認し、最終的に意根が確認します。これ以前に、五識の機能作用が生滅無常無我であることを観行確認します。これにより、幾つかの識心の我見・我所見が断除されます。我所見も断ち難いものです。

一切法の観行確認は主に意根に確認させ、次いで意識に確認させます。意根が一切法を自我と見做すからこそ、六識に執着を命じ、執着後、意根は六識の執着作用を自己の作用と見做し、「私が如何」と認識するのです。この自我が明らかに現前します。

意根は無始劫以来、五蘊を自我と見做し、色蘊を自我とし「身体が私」(身我見)、或いは「私の身体」(我所)とし、色身を貪愛し、保養し、護持するため六識に一切の業行(悪業を含む)を造作させます。

受蘊を自我と見做し、時に我所とし「受蘊が私」「私が受蘊」「受蘊を所有する」「私に受蘊の機能がある」と認識します。受蘊のために六識に一切の業行(悪業を含む)を造作させます。

想蘊を自我とし、或いは我所とし「想蘊が私」「私が想蘊」「想蘊の機能は私のもの」「私が思考し、思考対象を所有する」と認識します。六識に一切の業行(悪業を含む)を造作させます。

行蘊を自我とし、或いは我所とし「行蘊が私」「私が行蘊」「行蘊を所有する」「私が行動し、行動対象を所有する」と認識します。行蘊のために六識に一切の業行(悪業を含む)を造作させます。

識蘊を自我とし、或いは我所とし「識蘊が私」「私が識蘊」「識蘊を所有する」「私が識別し、識別対象を所有する」と認識します。識蘊のために一切の業行(悪業を含む)を造作します。

——生如法師の開示
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