仏は説かれた:戒によって定が生じ、定によって慧が生ずると。戒・定・慧は意識のみならず、意根にも具足すべきである。意根が我見を断つ智慧、明心の智慧を得んとすれば、禅定を修めねばならず、禅定の中で無我の法を参究思量し、真如仏性を参究思量してこそ、我見を断ち明心見性することができる。
もし意根自ら参究思量せずんば、意識が授ける理を認可することができず、結局は意識の解悟に留まる。意根が無我の理を参究思量せんとするも、同様に禅定が必要である。然らずんば散乱に陥る。意根に禅定なければ六識を散乱させ、六識の散乱は絶え間ない了別を生じ、了別の内容を意根に報告し続ける。かくして意根は絶えず心を分散させ、参究に集中できず、理想的な結果を参究することも叶わぬ。
いかなる方法も禅定に代わることはできず、解悟の修行法は慎重を要する。世尊の教えに従って修行すれば、決して誤りない。仏在世の弟子たちは皆坐禅修定を修し、日常の行住坐臥において常に定中で仏法を思惟した。唐宋時代から明清以前、民国以前の修行者たちは坐禅修定を主とし、その後行住坐臥に禅定を保ち、心を常に定中に置いた。かくして心細やかになり、破参の機縁熟し易く、触縁即証を得た。我々が彼らの悟得を容易に見るも、実は彼らの基礎修行は極めて優れ、善根福徳を具足し、三十七道品を具え、中に禅定も含まれていた。思惟は敏捷明晰で、相応する法を聞けば即時に悟証した。
全ての説法者の中、仏の説法は最も円満究竟であり、仏の智慧を超える者なし。仏語を信ずるに誤り絶えず。いかなる時代にあろうとも、仏法は永遠に不変で、全ての時代に適用する。仏経を多く読誦すれば智慧が増長し、迂路を歩まず、人に欺かれ難い。全ての菩薩の説法は仏と比べれば欠漏滲透あり、円満究竟ならざる所ある。故に我々の仏法修学は仏経を主とすべきである。
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