衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月22日    月曜日     第1開示 合計934開示

戒・定・慧を具えて初めて悟りを証得し解悟を避けられる

仏は説かれた:戒によって定が生じ、定によって慧が生じる。戒・定・慧は意識が十分に備わるだけでなく、意根も十分に備わらなければならない。意根が我見を断つ智慧、心を明らかにする智慧を持つためには、禅定も必要であり、禅定の中で無我の法を参究思量し、真如仏性を参究思量してこそ、我見を断ち心を明らかにして本性を見ることができる。

もし意根が自ら参究思量できなければ、意識が教え込んだ道理を認めることができず、結局は意識の解悟に終わってしまう。そして意根が無我の理を参究思量しようとする場合も、同様に禅定がなければならない。そうでなければ、意根は散乱して気が散ってしまう。もし意根に禅定がなければ、六識を散乱させ、六識が散乱すれば絶え間なく了別し、常に了別した内容を意根に報告しようとするため、意根は絶えず気を散らし、集中して参究できず、理想的な結果を参究することもできない。

いかなる方法も禅定に代わることはできない。解悟の修行方法には、十分に注意しなければならない。世尊が教えられた方法に従って修行すれば、決して間違いはない。仏在世の弟子たちは全て坐禅して定を修め、こうして普段の行住坐臥においても心は定の中で仏法を思惟していた。唐・宋の時代、明・清以前、民国以前の修行者たちは主に坐禅して定を修め、その後は行住坐臥の中に常に禅定があり、心は常に定の中にあった。こうして心の働きが細やかになり、参究を突破する機縁が熟しやすく、縁に触れて即座に悟りを証得したのである。我々が今振り返って彼らが仏法を証得した様子を見ると、あたかも全てが容易であったかのように思えるが、実は彼らの基礎的な修行は非常に優れており、善根と福德が具わり、三十七道品が具わっていたのである。もちろんその中には禅定も具わっており、思惟が鋭く明晰であったため、相応するある法を聞けば、たちどころに悟りを証得できたのである。

あらゆる人々の説法の中で、仏の説かれたものは最も円満で究極であり、仏の智慧を超える者はいない。仏の言葉を信じることに絶対に間違いはない。いかなる時代であれ、仏法は永遠に変わらず、仏法はあらゆる時代に永遠に適用される。仏経を多く読めば、智慧が増し、無駄な道を歩まず、人に騙されにくくなる。全ての菩薩の説法は、仏と比べると欠落や漏れがあり、全て円満で究極ではない点がある。したがって、我々が仏法を修学するにあたっては、やはり仏経を主とすべきである。

——生如法師の開示
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禅定は解脱の智慧を得るためのものである

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我見を断ずる根本は意根の我見を断ずることです

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