衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月22日    月曜日     第2開示 合計935開示

我見を断ずる根本は意根の我見を断ずることです

一切の衆生は五蘊を我と見做しているが、その衆生とは誰を指すのか。衆生は主に意根を指し、五蘊は意根を中心としている。意根は六識を統率し、色身と共に五蘊身を構成している。『維摩詰経』には「衆生の心の行いを了える」とある。誰が衆生の心の行いを了えるのか。如来蔵が衆生の心の行いを了えるのであり、この衆生とは意根のことである。なぜなら如来蔵は主に意根の心の行いを了え、意根の願いや考えを実現するのを助けるからである。その後初めて五蘊六識による身口意の行いの造作が生じ、三界の世間法が顕現するのである。

この意根こそが衆生を代表しており、意根は五蘊を我と見做し、色蘊を我と見做し、受蘊を我と見做し、さらに想蘊を我と見做し、行蘊を我と見做し、更に識蘊である六識を我と見做す。また如来蔵の様々な機能作用も我(意根)のものと見做している。この一切の法は全て私が作り出したものであり、全て私の所有に属する。したがってこの「我」は主に意根を指すのである。

では我見を断つとは誰の我見を断つのか、今や非常に明らかである。我見を断つとは主に意根の我見を断つことである。意根がこの一切の法を全て我と見做していることに対し、我見を断つとは意根に五蘊が我(意根)ではないと認めさせることである。意根のこの知見を断除することが即ち我見を断つことである。したがって我見を断つには必ず意根に触れ、意根に五蘊は私ではないと認めさせてこそ初めて我見を断ったと言える。

この「我」とは意根を指し、六識の意識心を指すのではない。なぜなら意根が識蘊(即ち六識)、受蘊、想蘊、行蘊、色蘊を全て我と見做しているからである。したがって我見を断つとは意根にこれらの法を再び我と認めさせないことである。もし意根が我見を断たず、ただ意識だけが我見を断つ場合、意識が五蘊は私ではないと認識しても、それは我見を断ったことになるのか。今のところ、意識が私ではないと認識しても無意味であり、これは我見を断ったことにはならない。意根に五蘊が私(意根)ではないと認めさせてこそ、最も根本的かつ究極的な我見断ちなのである。

——生如法師の開示
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