第二章 無辺称王の物語
原文:大王よ。まさに過去を往く。無量のクティ・ナユタ劫。転輪王あり。名を無辺称と曰う。富貴にして自在なり。大威徳あり。象・馬・車乗・衆宝の輦輿。最勝の輪宝は、壊すこと能う者なし。すでに無量の諸仏に親近せり。彼の仏所において、多くの善根を種えたり。意の随う所に念うこと、皆成就を得たり。
釈:仏は述べられた。大王よ、過去の無量無辺の劫数の昔に、無辺称という名の転輪聖王がいました。彼は非常に富貴で自在であり、大きな威徳力を持ち、象・馬・車乗および衆宝で飾られた輦輿を有し、七宝が具足し、最勝で誰も壊せない輪宝もありました。この無辺称王は過去に無量の諸仏を親近供養し、数多くの諸仏の御前で極めて多くの善根を培いました。その善根福徳の感召により、彼の心に思い浮かぶことは何でも成就し、全ての考えが実現したのです。
世尊がこの物語を語られた目的は、浄飯王に富貴享楽に貪着せず、心に足ることを知るよう教え諭し警覚させるためでした。物語では世間に貪着して満足しないことの果報、人心が満足しないことの結末が語られており、この物語は確かに「人心に満足する時はなく、貪心を断ち切れない者は五欲六塵に善く止足を知ることが容易ではない」ことを証明しています。無量の諸仏の御前で諸善根を培った無辺称王でさえもそうであったのです。
インド語の「クティ・ナユタ劫」とは、はるか遠い昔の非常に長い時間を指します。地球が成住壊空する一周期が一大劫であり、80×1680万年の時間に相当します。無量の大劫という長い時間の昔に、無辺称という転輪王がいました。転輪王は四種類に分かれます:金輪王・銀輪王・銅輪王・鉄輪王です。最も位の低い鉄輪王は一つの大洲のみを統治し、例えば地球の南贍部洲だけ、あるいは東勝神洲だけを専管します。銅輪王は二洲を統治し、銀輪王は三洲を統治し、金輪王は四洲を統治します。須弥山のふもと周囲には合計四大洲があります。全ての小世界の須弥山周辺にはこの四大洲が存在し、私たちの娑婆世界には合計十億の須弥山があります。つまり、釈迦仏の娑婆世界である一つの三千大千世界には十億の地球、十億の南贍部洲、十億の東勝神洲、十億の西牛賀洲、十億の北倶盧洲があり、十億の金輪王が存在することになります。銅輪王や鉄輪王は十億を超える数です。これらの転輪聖王が得た福報は皆、無量千万億の仏を供養したことによるものであり、これは世俗法における世間の福報です。
転輪王は非常に裕福で自在であり、権勢を持ち、大威徳を具え、象宝・馬宝・車乗宝・金銀珠玉・輦輿などの七宝を有しています。転輪王は足元に七宝の輦輿を踏み、私たちの地球の南贍部洲から瞬時に他の各洲へ飛び、さらに瞬時に忉利天の天帝釈の元へ飛ぶことができます。これは金輪王の福報の感得によるもので、彼が望むものは何でも得られます。もちろん欲界の物質的範囲内においてです。
転輪王は無量の諸仏に親近して初めてこの福を修めました。私たちは小さなことさえ成し遂げられず、福を修めたことがないため、金銀財宝などの物事に対して自在ではありません。頭を悩ませても無駄で、現れることもありません。福徳を修めていない者は、大学生や博士号取得者であっても、この世で一生懸命努力しても依然として成功せず、能力は具足していても福報がないため、必要なものを得られません。福を修めた者は、文字が読めなくても大富大貴を得られます。過去の多くの詩人が詩句の中で「才能があるのに認められない」と嘆いたのはなぜでしょうか?才能だけでは不十分で、福報も必要だからです。私たちが今生で得るものは全て前世で修めたものです。自らに大いなる福徳を得ようとするなら、絶えず福を修めなければなりません。全ての福徳は天から降ってくるのではなく、他者を利益する福徳の修行から生まれます。特に大乗仏法において多く福を修め、大乗三宝への供養布施を多く行うべきです。
金輪王はすでに無量の仏を供養し、それほど多くの善根を培って初めて金輪王となりました。もし私たちが真剣に修行せず、ただ一句の仏号を唱え、命終して極楽往生し、そこで成仏を待つなら、果たして成仏できるでしょうか?私たちは釈迦仏のみを供養し、しかも十分に供養もできていません。極楽世界では阿弥陀仏一尊に出会うだけです。それで成仏できるでしょうか?金輪王になるためでさえ無量の仏を供養しなければならないのです。ましてや成仏というさらに殊勝な果報においてはなおさらです。仏は経典で「衆生が成仏するには皆、無量無辺の諸仏を供養する必要があり、一仏一仏の御前で経を聴き法を聞き、世々に諸仏を供養して初めて福徳が具足し、福慧両足尊の世尊となる」と説かれています。したがって「一句の仏号を唱えて極楽往生すれば成仏できる」ということはあり得ません。衆生を度す経験も具足せず、仏法も学んでおらず、福報も修めていない者が、そう簡単に成仏することは不可能です。
もし本当にそんなに容易なこと、つまり仏号を唱えて成仏できるということがあるならば、弟子たちが法を聞きたいと思っても、自分は小乗の教えさえ説けず、大乗の教えはなおさら説けない状態で、どうやって衆生を度すのでしょうか?さらにこれらの衆生弟子はどこから来るのでしょうか?自分は弟子を度したこともなく、衆生と縁を結んだこともないのに、どうして弟子がいるでしょうか?衆生を度したことがなければ弟子はおらず、弟子の協力がなければ仏国土を建立することもできず、成仏もできません。例えば国王になる場合、大臣も民衆もいなければ国王にはなれません。極楽世界に行っただけで、衆生を度したこともなく、福報が具足せず、経典を説く智慧も具足せず、福慧も具足していなければ、成仏はできないのです。
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