本来、第六識と第七識は五蘊を我と見做していたが、観行によって我見を断った後は、もはや五蘊を我と見做さなくなる。意根は本来、色蘊を我とし、受蘊を我の所有とし、色蘊は受蘊の中にあり、受蘊は色蘊の中にあると認識していた。では観察してみよう、色蘊の中に受蘊は存在するか?受蘊の中に色蘊は存在するか?いずれも存在せず、両者は互いに混ざり合わない。同様に、意根は受蘊を我とし、色蘊・想蘊・行蘊・識蘊を我の所有と見做し、受蘊の中に色蘊・想蘊・行蘊・識蘊があり、色蘊・想蘊・行蘊・識蘊の中に受蘊があると認識していた。実際には諸蘊は互いに内在せず、具体的に五蘊を観察するとき、これを証得できる。
もし身体の中に受を見出せ、受の中に色を見出せるとするならば、死体にも受があり、木材にも受があることになる。もし受の中に色があるならば、受は即ち色であり、受は色を有することになる。もし受に色があるならば、それは識心の無色の作用ではなくなる。他の諸蘊についても同様に観察すべきである。
大乗の理と小乗の理を同時に説き同時に観行しようとすると、小乗の無我理を観行する際に観行が成立しなくなる。大小乗の理を同時に思惟観行するのは混乱を招き、小乗による我見断絶の修行にやや不利である。大乗の理を明らかにした後、専ら小乗を観行する際には、大乗を混入させてはならない。そうでなければ着手の余地がなくなる。
もし五蘊が第八識でなく(非)、第八識と異ならず(不異)、第八識と互いに内在せず(不相在)ということを観行しようとするならば、皆様どうか努めて試みられたい。これを観行し得るか?どのような思路があるか?仏が阿含経で説かれた方法に従って観行すれば、思路は極めて円滑である。独自の方法を創出してはならない。
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