我見は根深く固まっているため断ち難く、我所見もまた根深く固まっているために非常に断ち難いものです。五蘊の一部分の機能作用を我と見做すと、もう一部分の機能作用を我所と見做し、根深く固まった「我」と「我の所有物」としての執着は、習慣的な認知として転換が極めて困難です。不如理なる知見を断除するには、長期的な観行が必要であり、自らが五蘊に対して抱く様々な観点や見解を絶えず内省し、禅定の中で如理に思惟し続けなければなりません。
我と我所は非一であり、異なるものは即ち異です。例えば受蘊を我と認めるならば、色蘊は私の所有物である我所となり、我と我所は異なります。色蘊を我とする我見は断たれたように見えても、色蘊を我所とする知見もまた邪見であり、根深く固まっています。我見と我所見は同様に我見であり、どちらも断除すべきであり、どちらも断ち難いものです。我見を断った後、知見が是正されると、我と我所は異ならないと認識するようになり、受蘊は我ではなく、色蘊も私の所有物(我所)ではなく、両者とも私(我)ではないと理解します。
我見を断つ前は、受蘊を我と見做し、色蘊を我所と見做し、受蘊は色蘊の中に存在し、色蘊は受蘊の中に存在すると考え、両者は互いに存在し合い、その体性に遍満していると認識していました。我見を断った後、知見が是正されると、受蘊は我ではなく、色蘊は私の所有物(我所)でもなく、受蘊は色蘊の中にはなく、色蘊も受蘊の中にはないと理解し、両者は互いの中に存在せず、色・受・想・行・識の五蘊は我ではないが故です。
この問題は難解であり、思議を超えています。禅定の中でこの問題を脳裏に、意根に懸けておく必要があり、ある日突然悟りが開け、その真義を通達する時が来るでしょう。この結び目が解けた時、我見を断つ障害は排除され、観行の抵抗は小さくなるのです。
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