如来蔵が動かないのは心の思いであり、その心は境界の来去に従って動転することはない。しかし心が動かない時でも、刹那刹那に万法を生じ出し、一切の法は全てそれ(如来蔵)から生まれる。その働きは非常に多いが、忙しいとは感じない。
第七識がどんな業行を造作しても、如来蔵は心を動かさず、何の感覚もない。どんな業種が現前しても、如来蔵は情緒を持たず、業種に随って法を現すが、一切の法とは無関係である。「東西南北の風が吹こうとも、我は安然として須弥山の如く動じない」。変わらずに縁に随い、縁に随いながら変わらない。染汚を受けず、流転に従って自性を失わず、万法と合流せず、万法を伴侶としない。これが如来蔵の謂れである。
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