原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、もし比丘が行ずるも、形あるも、相あるも、欲を離れ、悪しき不善の法を離れ、覚あり観あり、離生の喜楽ありて、初禅を具足して住するなり。彼はかかる行、かかる形、かかる相を憶念せず、しかるに彼の色・受・想・行・識の法に対し、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、殺のごとく、無常・苦・空・非我と思惟し、その法に対して厭離し、怖畏し、防護す。厭離し、怖畏し、防護したる後、甘露の門をもって自らを饒益せしめ、かくのごとく寂静にして、かくのごとく勝妙なる、いわゆる捨離、余愛尽き、無欲・滅尽・涅槃を証するなり。
仏法を学び修行して解脱を得るには、まず五蘊が壊敗滅尽する法であることを認識し証得し、その後にはじめて大乗の法を修して禅を参じ、五蘊皆空なることを認識し証得し、如来蔵と一ならず異ならざることを悟らねばならない。前段階の基礎は必ず固めねばならず、必ず実際に修行してこそ自我を降伏し、煩悩を降伏し、心に解脱を得ることができる。前段階の基礎部分なくしては、後段の大乗の法は空中楼閣のごとく、自我を降伏することも、煩悩を断つこともできず、かえって煩悩を増すことさえありうる。
五蘊の煩悩は、すべて五蘊の我を真実と認めることによって生じる。五蘊を打破せず、五蘊の生滅変異する性質、実体なき非我の性質を見極めなければ、引き続き五蘊を執取して生死の業を造作することになる。
もし直接に五蘊こそが第八識であり、第八識の功能作用であると認めてしまうならば、悪業を造る際に、自己弁護して「五蘊は第八識であるから、悪業も第八識が造るものであり、第八識の造作するものはすべて虚妄であって因果はない」と言い訳し、結局自心を改めることができず、依然として元のままである。いかなる煩悩が生じても、常に「煩悩即菩提」と言い、「煩悩の相はなく、すべて菩提心の解脱の相である」とするならば、自心を改めることができず、煩悩は相変わらず続き、悪報は尽きることがない。戒律を守れないとき、「第八識は本来戒を保つ必要がなく、守るべき戒も存在しない。戒の相に執着することもまた生死である」と言うならば、このように悪取空の結果、永遠に戒律を保つこともできず、解脱を得ることもできない。解脱について語れば、すぐに「私は解脱を求めない」と反論する者が現れる。しかし第八識は本来解脱して繋がれることがないから、確かに解脱を求める必要はない。では、あなたの七識・五蘊の身が果たして第八識と等号で結べるのか? それもまた本来解脱して求める必要がないものなのか?
仏法を学ぶのは本来、仏法の甘露を得て、無明の覆いを取り除き解脱するためである。このような学仏修行の結果は何か? いっそう無明を増し、いっそう煩悩を増すのみである。どうして解脱を得られようか? 仏法は甘露のごとく良薬のごとく、正しく服用しなければならない。もし正しく服用しなければ、毒薬を飲むようなものである。甘露が毒薬と化すのは、誰の過ちであろうか?
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