衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月27日    木曜日     第7 回の開示 合計1646回の開示

雑阿含経(八六四)

原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく「比丘がもし行じ、形作り、相をなすに、欲を離れ、悪しき不善の法を離れ、覚有り観有りて、離生の喜楽を具足し、初禅に住するに至らん。彼はこのような行、このような形、このような相を憶念せず、しかも彼の色・受・想・行・識の法に対し、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、殺のごとく、無常・苦・空・非我と観じ、彼の法に厭離し、畏怖し、防護す。厭離し畏怖し防護しおわりて後、甘露の門をもって自らを饒益し、このように寂静で、このように勝妙なる、いわゆる捨離、余愛尽き、無欲・滅尽・涅槃を証するなり」

仏道を学び修行して解脱を得んとするには、まず五蘊が壊れ滅び尽きる法であることを認識し証得した後、はじめて大乗法によって禅を参じ、五蘊皆空なることと如来蔵が一ならず異ならざることを認識し証得すべきである。前段の基礎は必ず堅固に築かねばならず、実際に修行してこそ自我を降伏させ、煩悩を制し、心が解脱を得る。前段の基礎部分なき後段の大乗法は空中楼閣のごとく、自我を降伏させず、煩悩を断じ得ず、かえって煩悩を増長する恐れあり。

五蘊の煩悩は、すべて五蘊の我を真実と認めることより起こる。五蘊を打破せず、五蘊の生滅変異性、実ならざる非我性を明らめねば、引き続き五蘊を執取し、生死の業を造作するは必定なり。

もし直接に五蘊を第八識と認め、第八識の功能作用なりとすれば、悪業を造る際に自らを庇い「五蘊は即ち第八識なり、悪業もまた第八識の造作なれば、第八識の造作するはすべて幻にして因果無し」と説きながら、結局自心を改めず依然として旧態を保つ。いかなる煩悩が生起する時も、もし常に「煩悩即菩提なり、煩悩の相無く、すべて菩提心の解脱相なり」と説くならば、自心を改めること能わず、煩悩は旧のごとく、悪報は尽きること無し。戒律を護持せぬ時「第八識は本来戒律を用いず、護持すべき戒も無し。戒相に執着するもまた生死なり」と説くならば、悪取空の結果、永遠に戒律を護持できず解脱を得られぬ。解脱について説くや、直ちに「我は解脱を求めず」と反論する者あらん。しかし第八識は本来解脱し繋縛無し、故に当然解脱を求めず。七識五蘊身たる汝、果たして第八識と等号を劃し、これまた本来解脱して求めざるべきものと言えようか。

仏法を学ぶは本来、仏法の甘露を得て無明の遮障を除き解脱を得んがためなり。このような学仏修行の結果は如何。ますます無明を増し、ますます煩悩を増長す。いずくんぞ解脱を得んや。仏法は甘露のごとく良薬のごとし。正しく服用すべきなり。もし正しからざる服用をなせば、毒薬を飲むがごとし。甘露が毒薬と化すは、誰が過ちぞ。

——生如法師の開示
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