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日常法話

2019年06月27日    木曜日     第8開示 合計1647開示

雑阿含経第二十一巻(五七〇)

原文:如是我聞。一時、仏は庵羅聚落の庵羅林に住したまい、多くの上座比丘とともにせり。

時に質多羅長者は諸上座の所に詣で、頂礼足下し、退いて一面に坐し、諸上座に白して言く、「諸の世間の所見は、或いは我ありと説き、或いは衆生と説き、或いは寿命と説き、或いは世間の吉凶と説く。いかんが尊者よ、此の諸の異見は、何を本とし、何を集め、何を生じ、何を転ずるや」と。

時に諸上座は黙然として答えず、かくのごとく三たび問うとも、また三たび黙然たり。

時に一下座比丘有り、名を梨犀達多と曰い、諸上座に白して言く、「我、彼の長者の問う所に答えんと欲す」と。

諸上座言く、「善く能く答うる者は答えよ」と。

時に長者は即ち梨犀達多に問う、「尊者よ、凡そ世間の所見は、何を本とし、何を集め、何を生じ、何を転ずるや」と。

尊者梨犀達多答え言く、「長者よ、凡そ世間の所見は、或いは我ありと言い、或いは衆生と説き、或いは寿命と説き、或いは世間の吉凶と説く。斯の等の諸見は、一切皆な身見を以て本と為し、身見を集め、身見を生じ、身見を転ず」と。

また問う、「尊者よ、いかんが身見と為すや」と。

答え言く、「長者よ、愚癡無聞の凡夫は色を見ては我とし、色は我に異なるとし、色の中に我ありとし、我の中に色ありとす。受・想・行・識を見ては我とし、識は我に異なるとし、我の中に識ありとし、識の中に我ありとす。長者よ、是を名づけて身見と為す」と。

また問う、「尊者よ、いかんが此の身見無きを得るや」と。

答え言く、「長者よ、多聞の聖弟子は色を見て我とせず、色は我に異なると見ず、我の中に色ありと見ず、色の中に我ありと見ず。受・想・行・識を見て我とせず、識は我に異なると見ず、我の中に識ありと見ず、識の中に我ありと見ず。是を名づけて身見無きを得ると為す」と。

釈:ここでの「我」は、後述の衆生・寿命・世間吉凶と同様に、虚妄の我であり、断ずべき我であり、壊滅する我であり、真我たる第八識を指すものではない。故に我見を断ずるには、五蘊が無我・無寿命・無衆生・無世間吉凶であり、依存不可なることを観察せねばならぬ。現時点では五蘊中の第八識を観察することはできず、我見を断じた後の参禅時に至って初めて第八識を探求し、見出した後に至って初めて五蘊と第八識の関係を観察し得る。第八識は小乗の我見断の観行時に観察する対象ではない。

我見は身見より起こる。我見を断ずるには先ず身見を断ず。色身の中に妄我無きことを観行し、色身は妄我の所有に非ず、色身は妄我の中に在らず、妄我は色身の中に在らず。次いで順次に受・想・行・識蘊が妄我に非ず、また妄我の所有にも非ず、我は受想行識蘊の中に在らず、受想行識蘊は妄我の中に在らざることを観行する。かくして我見を断ずることができる。妄我と真我を混同して区別せざるべからず。修行は先ず妄我を破り、妄我の生滅変異無常性を証得し、その後真我を立て、真我が五蘊妄我を出生し得ること、五蘊ことごとく真我の性たることを証得するのである。

多くの人々が仏経の字句の語義を解せず、経文を誤解し、先入観に囚われたため、後日これを是正する際には極めて困難を伴う。

実際の観行過程を経て証果を得た者は、自らの修証経験が指針となるため経文を誤解することはなく、容易に経文を理解し得る。実際の観行修証を経て得られた経論は、理論家の意識的理解から導かれた結論とは往々にして一致せず、表面的には意識的理解によるものが正しいように見えても、実際には真理に合致しない。

現今、理論家の説法は大衆の好みと一致し、大衆に迎合し得るため非常に歓迎される。大衆はまた方向感覚を失っている。真実の観行智慧は往々にして大衆の思考と一致せず、排挤や誹謗を受けやすい。法が久しく流布すれば弊害が生じるのは、衆生の業力による所以である。

——生如法師の開示
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雑阿含経(八六四)

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真に我見を断つには、観行によって意根が我ならざることも必要である

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