「五蘊は我ならず、我に異ならず、互いに在らず」とはどのような意味でしょうか。五蘊を観行して我見を断つという場合、いったい誰の見を断つのでしょうか。意根の我の見でしょうか、それとも第八識の我の見でしょうか。第八識にいかなる見があるでしょうか。五蘊を自己と見なすような見があるでしょうか。第八識は無我性であり、我見を持ちません。意根が五蘊を我と見なすことによって我見が生じるのです。したがって断つべきは意根の我見であり、意根に我見を断たせることです。我見を断った後の結果として「五蘊に我なし」と認識する場合、この「我」とは何を指すのでしょうか。これは妄我である意根を指すのであり、五蘊に第八識がないと言うのではありません。
我見を断つことが意根に我見を断たせること、つまり意根に五蘊は我ではないと認めさせ、五蘊を我と見なす知見を改めさせることであるならば、最終的な結論として「五蘊に我なし」とは、五蘊が意根の我ではなく、意根がもはや五蘊を我と見なすべきでないことを必ず意味します。
「五蘊は我に異ならず」とは、意根の我が所有するものでもありません。我と我所は共に法に叶わず、全て邪見であり、断除すべきものです。我と我所は共に生滅無常の幻化した仮相であり、真実のものではありません。
「互いに在らず」とは、五蘊の我と我所は互いに存在せず、我は我所の中になく、我所は五蘊の中にありません。意根が五蘊を我と見なし、あるいは我所と見なすことは共に誤りであり、非量です。これらの見解を全て断除してこそ、真の我見断ちとなります。
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