衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2019年06月28日    金曜日     第3開示 合計1650開示

五蘊は我ならず、異ならず、相在せず

多くの人が言う、五蘊は我ならず、我と異ならず、互いに在らず、この我は第八識を指すと。しかしこれは大乗の法の観行であり、すでに我見を断った上での観行である。小乗で我見を断つときは、まだこの観行を行うことはできない。

小乗の観行全体は、意根に我見を断たせるのであり、第八識に我見を断たせるのではない。第八識は五蘊を己れと見なさず、五蘊に執着もしない。したがって観行の最後に、もし五蘊は第八識ではないと言うなら、そう言うのは的外れで意味がなく、その人が本当に観行の修行をしておらず、我見を断っていないことを示している。

世尊は十数年にわたり阿含経を説き、声聞の弟子たちを導いて証果を得させ解脱させた。この中には般若唯識の部分の具体的な観行内容は含まれていない。なぜなら小乗の者には因縁がまだ具わっておらず、実在して滅びない真我が存在することを知っていれば十分だったからである。般若の部分は阿含経を説いてから十数年後に説かれた内容であり、その時になって初めて参禅して第八識を証悟し、その後で第八識を観行し、最後になって唯識の部分が説かれたのである。ただし仏が苦集滅道の四聖諦の部分を説く際に、声聞の弟子たちに不生不滅のものが実在の我であることをほのめかしており、弟子たちは仏の言葉を信じて受け入れ、自分が将来涅槃に入る時にも滅びないものがあることを知り、それによって安心して道を修め、涅槃に向かうことができたのである。

声聞の弟子たちが四聖諦を修行する際には、ただ五蘊十八界が苦・空・無常・無我であることを思惟観行するだけで、第八識を思惟観行することはできなかった。では観行の結果として第八識を証得できるだろうか?第八識の体性を知り、五蘊と第八識の関係を観行することができるだろうか?修学と観行の法がなければ、もちろん実証することはできない。実証できない以上、どうして実証結果として「五蘊は第八識ではない」「五蘊は第八識と異ならない」「五蘊と第八識は互いに在らない」などと言えるだろうか?

第八識を観行実証していない限り、五蘊と第八識の関係が結局どうなっているかを知ることは不可能である。実際、仏在世の声聞たちは当初、第八識の理をほとんど理解していなかった。密行の菩薩は例外だが、彼らは絶対に口にせず、完全に世尊に協力した。世尊が説かれていない法については、自分が優れていると思い上がって表に出すことはせず、彼らの心はよく調伏されていた。

現代の人々は如来蔵の法を多少学んではいるが、もし実際に観行参究せず、如来蔵を実証していなければ、ただひたすら五蘊十八界が苦・空・無常・無我であることを思惟観行するだけでは、同様に五蘊と如来蔵の真実の関係をあるがままに知ることはできない。たとえ知っていてもそれは知識や学問に過ぎず、現前に観察する証量がないのだから、五蘊と第八識如来蔵の関係について結論をあるがままに導き出すことはできない。この結論は必ず、如来蔵を証得した真の菩薩でなければあるがままに現観できるものであり、悟りが浅い場合や解悟だけでは観察できず、ただ相似的に理解できるだけである。導き出される結論は現量観察の結論ではなく、学んできた知識の要素が非常に多いのである。

——生如法師の開示
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意根が五蘊を我および我所と見なさないことこそ、真に我見を断つことである

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意根はどうすれば我執を断つことができるか

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