意根が我執を有するのは我見があるためであり、我見が生じるのは一念の無明によるものです。意根は一念の無明の故に、第八識が現出する一切の法を我及び我の所有と見做し、それらが全て第八識に属することを知らないため、我見と我所見が生じます。意根がこのような邪見を抱き、正しき知見を失うと、第八識より生じ現れた五蘊十八界を我及び我の所有として執着し、捨て去ることを拒み、煩悩は熾盛となり、生死が断絶しなくなります。
意根の我執を断除するには、まず意根の我見を断じなければなりません。我見あるが故に我執が生じ、我見を断じて初めて徐々に我執を断じることができます。誤った見解があるからこそ執着が生じるのです。もし意根の見解が正しくなり、五蘊十八界が苦・空・無常・無我であり、把捉すべからざるものと悟れば、五蘊十八界への執着を止め、最終的に解脱を得て心が清浄となるでしょう。
意根が我見を断除する際の五蘊無我に対する認識は段階的です。無明の深浅、禅定の程度、観行の智慧の差により、我見断除の深さは異なります。四果における我見断絶、三果におけるそれ、二果、初果におけるそれ、各果位によって我見断除の深さと得られる智慧は異なります。これは丁度学校における学生の学力が一様でないごとく、同学年同クラスにおいても水準が揃わないのと同様です。
初果で我見を断った後、引き続き五蘊の苦・空・無常・無我の理を観行し熏習すれば、智慧と禅定は次第に深まり、我見はより徹底的に断たれ、五蘊への執着は徐々に薄れ、我執が尽き果てれば四果の大阿羅漢となります。我見我執を断じ尽くした者は一念の無明も滅し、命終すれば無余涅槃に入ります。
故に我見は我執の根源であり、我執を断ずる前に必ず我見を断じなければなりません。意根が四果において我執を断じ尽くす際、我見はいつ断たれ始めるのでしょうか。必ず初果において意根の我見を断じます。我見を断じて初めて意根の五蘊への執着性が徐々に緩み、煩悩も次第に薄れ、時至れば二果を証得します。執着の軽減と煩悩の消退により五蓋が有効に調伏され、初禅定が発起し、その功徳受用により貪欲と瞋恚の煩悩を断じて三果人となり、その後我慢我執を断じ尽くして四果人となり、世間との縁が尽きれば無余涅槃に入ります。
もし意根が我見を断たなければ初果となることができず、初果の解脱功徳を受用できなければ、更に観行を進めて煩悩の薄れた二果人となることも叶いません。二果人とならねば初禅を発起して三果人となることもできず、三果人とならねば煩悩を断じ尽くした四果人となることも不可能です。
小乗の修行次第はこの如くであり、大乗菩薩といえどもこれを超越して修めないことは許されません。大乗菩薩の修行もこの理法、この次第、この手順に従わなければならないのです。
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