衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月28日    金曜日     第4開示 合計1651開示

意根はどうすれば我執を断つことができるか

意根が我執を持つのは我見があるからであり、我見があるのは一念の無明があるからである。意根は一念の無明のゆえに、第八識が顕現させた一切の法をすべて「我」および「我の所有するもの」と見做し、それらがすべて第八識のものであることを知らない。それゆえに我見と我見に基づく対象(我所見)が生じる。意根がこのような邪見を持つゆえに、正しい知見を持たず、第八識から生じ顕現した五蘊十八界を「我」および「我の所有するもの」として執着し、放棄しようとしない。そのため煩悩は激しく燃え上がり、生死の流転は絶えない。

意根の我執を断除しようとするならば、まず意根の我見を断除しなければならない。我見があるからこそ我執が生じるのであり、我見を断除した後に初めて徐々に我執を断除できる。誤って認識するからこそ執着が生じるのである。もし意根の見方が正しくなり、五蘊十八界が苦・空・無常・無我であり、捉えどころのないものであると知るならば、もはや五蘊十八界に執着することはなくなり、最終的に解脱を得て、心が清浄となるのである。

意根が我見を断除し、五蘊が無我であると認知するレベルは様々である。無明の程度、禅定の深さ、観察の智慧が異なるため、我見が断除される深浅も一様ではない。四果における我見断除、三果における我見断除、二果における我見断除、初果における我見断除があり、それぞれの果位によって我見が断除される深さも異なり、得られる智慧も異なる。それはあたかも一つの学校において生徒のレベルがまちまちであり、同じ学年、同じクラスの生徒のレベルさえもまちまちであるようなものである。

初果において我見を断除した後、引き続き五蘊が苦・空・無常・無我であるという理を観察し、修習(熏習)する。智慧と禅定が次第に深まるにつれて、我見はますます徹底的に断除され、それゆえ五蘊への執着は次第に軽微となる。我執が断じ尽くされると四果の大阿羅漢となる。我見が断じ尽くされ、我執が断じ尽くされた者は、一念の無明もまた断じ尽くされ、命終すると無余涅槃に入ることができる。

したがって、我見は我執の根源である。我執を断ずる前に必ず我見を断除しなければならない。意根が四果において我執を断じ尽くすが、我見はいつから断ち始めるのだろうか? 必ず初果において意根の我見を断除するのである。我見を断除した後、初めて意根の五蘊への執着性が徐々に緩み軽減され、煩悩も次第に軽微となる。一定の段階に至ると二果を証得する。執着が軽減され煩悩が軽微となるため、五蓋は効果的に調伏され、初禅定が初めて発起する。そして初禅定の中の功徳と受用をもって、貪欲と瞋恚の煩悩を断除し、三果の聖者となる。その後、我慢(我執)が断じ尽くされ、四果の聖者となり、世間との縁が尽きた時に無余涅槃に入るのである。

もし意根が我見を断たなければ、初果となることはできず、初果の解脱という功徳と受用も得られない。したがって、その基礎の上にさらに進んで観察修行し、煩悩が軽微な二果の聖者となることもできない。二果の聖者とならなければ、初禅を発起して三果の聖者となることはできない。三果の聖者とならなければ、煩悩を断じ尽くした四果の聖者となることはできない。

小乗の修行の次第はこのようである。大乗の菩薩もこれを越えて修めないわけにはいかない。大乗の菩薩の修行もまた、この理、この次第、この手順に従わなければならない。

——生如法師の開示
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