識蘊の六識を我と考える「我」は、真我である第八識なのか、それとも妄我である意根なのか。我見を断つとは、意根に識蘊を我とする我見を断たせることなのか、それとも第八識に識蘊を我とする我見を断たせることなのか。観行の最後の最後は、意根が識蘊は無我だと認めることなのか、それとも第八識が識蘊は無我だと認めることなのか。我見を断った結果とは、意根に識蘊・五蘊は我ではなく、我が所有するものでもないと認めさせることである。第八識に識蘊・五蘊が無我・無我所だと認めさせることではない。我見・我所見は第八識とは無関係である。
識蘊の苦・空・無常・無我を観行するとは、識蘊の生滅変異する無常性、および識蘊の無我性・不実性を観行すべきであり、識蘊が仮我である意根ではなく、仮我である意根の所有物でもなく、実際には仮我・妄我というものも存在せず、すべてが空であることを指す。識蘊・五蘊が第八識ではないと観行することではない。
この観行は誰が行うのか。第八識が行うのではなく、意根が意識の観行を基に自ら行い、最終的に意根は「識蘊は我ならず、また我と異なるものでもない(識蘊非我不異我)」、すなわち「我と識蘊は互いに存在せず、包含もしない」ことを理解するのである。
「異」とは、識蘊は我ではなく、我が所有するものであることを意味する。「不異」とは、識蘊は我でもなく我が所有するものでもなく、我と我所の両方を断除すべきであることを意味する。
いったい誰が識蘊の無我・非我を実証するのか。誰が色蘊の無我を実証するのか。誰が受蘊の無我を実証するのか。誰が想蘊の無我を実証するのか。誰が行蘊の無我を実証するのか。誰がこれらの蘊を我とする我見を断除するのか。我見は誰の見解か。我見における「我」は何を指すのか。五蘊を我とする知見は邪見であり、五蘊は我ではないとする知見は正見である。誰が邪見を持ち、誰が正見を得るのか。どの「我」の邪見を断ったのか。どの「我」に正見を持たせたのか。誰が五蘊は我ではないと考えるのか。誰が五蘊は我だと考えるのか。五蘊が「我」であるという「我」はどの我を指すのか。この知見は正見か邪見か。
正見であれ邪見であれ、第八識はそれを持たない。第八識自体は知見を起こさず、仏法を学ばず修行せず、見惑・煩悩惑を持たないため、見惑や煩悩惑を断除する必要もない。したがって、観行の最初は第六識・第七識(意識・意根)が観行し、観行の最後には第六識・第七識が五蘊を我と認めなくなり、いわゆる「我」は存在せず、五蘊・十八界は無我であると知るのである。
もし観行の最後に「五蘊は第八識ではない」と結論づけるならば、証果を得る前に、その者は五蘊こそが第八識であると考えてしまうだろう。しかし、衆生は無始以来、そのような覚りを持ったことがなく、真我である第八識の存在を知らず、常に五蘊こそが妄我であり、自己が所有し使用するものだと考えてきた。我見を持つ者がいれば、その者に我見を断たせるのである。意識と意根が我見を持つため、我見を断つとは、意識と意根の我見を断つことを意味する。我見を断つことは「偽りを去る」ことである。明心(真実の心を悟ること)は「真実を認める」ことである。意根と意識が偽りを断った後、初めて真実を認めに行くことができるのである。
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