衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月29日    土曜日     第2 回の開示 合計1654回の開示

小乗の行者は如実に観行した後、いかなる結論に至るべきか

もし五蘊が虚妄であり無我であると観行した後、五蘊は第八識ではないという結論に至った場合、それは何を説明するのでしょうか。すべての凡夫衆生が無始劫以来、ずっと五蘊を第八識と見做してきたことを示し、その後仏法に遇い解脱を得ようとして、観行思惟を経て従前の誤った認識を正し、邪見を正見に改めたこと:五蘊は第八識ではなく、五蘊は第八識に非ず、非非第八識でもある。そうでしょうか。非非第八識という言葉は、五蘊もまた第八識であるという意味を含んでいるのでしょうか。

もしそうであるなら、凡夫衆生が無始劫以来ずっと五蘊こそ第八識であると考えてきたことは、何が間違いで、邪見なのでしょうか。何も間違っていません。もし凡夫衆生が無始劫以来本当に五蘊を第八識と見做してきたなら、我見と我執は存在せず、無明と煩悩もなく、仏が娑婆に八千回も来て衆生を救う必要もなかったはずです。衆生が第八識の我を認めれば五蘊の我を認めず、悪業を造ることもなかったでしょう。最も重要な点は:凡夫衆生は無始劫以来本当に五蘊を第八識と見做してきたのかということです。

もし凡夫衆生が無始劫以来ずっと五蘊を第八識と見做してきたなら、本当にそうであるなら、すべての凡夫衆生は地上の菩薩となり、唯識種智を具えているはずです。なぜなら地上菩薩のみが唯識種智の現量観行によって、五蘊の全体が第八識であることを観察できるからです。ぬいぐるみの全体が布であり、泥人形の全体が泥であり、金細工の全体が金であるように。そうすると一切衆生は無始劫以来みな地上菩薩であり、それならば我見を断じ、第八識我見を断じ、我第八識見を断ずる必要などあるでしょうか。

もし凡夫衆生が無始劫以来第八識真我の存在を知らず、五蘊こそ第八識であると考えていないなら、凡夫衆生が解脱法に遇い、四聖諦苦集滅道を観行し、苦空無常無我を観行する時、最終的に五蘊は第八識我に非ず、我第八識に非ざるという結論に至れるでしょうか。これは概念のすり替えではありませんか。もし概念のすり替えであるなら、誰も真に我見を断じることはできず、すべての小乗修行者は法眼浄を得られず、解脱も得られないのです。

真実如実に三十七道品を修行し、如実に観行を行う者が、我見を断じて証果する時、決して五蘊が第八識に非ずという結論には至りません。このような結論を出すことは、実際の修行に対する情思意解であり、如実な思惟観行の過程を経ていません。我見を断じた後、大乗法の観行の立場から初めて、五蘊が第八識に非ずという結論が得られるのです。

仏が弟子たちに四聖諦を説かれる時、まず弟子たちに告げられます:五蘊の中に真我第八識が不生不滅で存在し、たとえ五蘊十八界を滅尽しても第八識は滅びないと。こうして弟子たちは仏語を信受し、不滅の存在を知り、無余涅槃の後が断滅空無ではなく、その真我に功用あることを悟ります。衆弟子は仏語を聞いた当時、五蘊十八界は滅びうるが第八識は滅びないことを知り、五蘊が第八識ではないことを悟ります。しかしこの知は意識の知であり、意根が実証したものではありません。実証すれば大乗菩薩となります。彼らは第八識を探し求めることもなく、ただ五蘊の苦空無常無我性を観行します。辛苦を重ねて観行した末に「五蘊は第八識に非ず」という結論に至るようなことはしません。もしそうなら、その者は真剣に仔細に観行していないのです。この結論は仏が真我の存在を説かれた時、心の中で既に知るべきものでした。

阿含経で仏が四念処経を説かれました:身を不浄と観じ、受を苦と観じ、心を無常と観じ、法を無我と観じよ。もしこの人が真実如実に観行し、数年を経て我見を断じた時、「身は第八識に非ず、受は第八識に非ず、心は第八識に非ず、法は第八識に非ず」という結論に至ることができるでしょうか。もしこの結論に至ったなら、問います:この人はどのように観行したのでしょうか。世尊の説かれた内容に如実に従って観行したのでしょうか。

この人は想像によって結論を下しており、真に如理なる観行を行っていません。もし小乗修行者が実際に五蘊が第八識如来蔵に異ならざることを証得したなら、彼らは苦を恐れて急いで五蘊を滅し無余涅槃に入ろうとはしないでしょう。なぜなら五蘊が全て第八識の示現する幻化相であり、実事がなく真実の苦がないことを証得するからです。

——生如法師の開示
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