六識の機能作用を自らの機能作用と見なすことが我見である。六識の見を自らの見と執着することが我見である。六識が六つの窓口で得た情報を自らが了別したものと見なすことが我見である。六識が六入処で受ける感受を自らの感受と見なすことが我見である。六識が六塵に対して持つ思想観念を自らのものと見なすことが我見である。六識の身口意行による造作を自らが造作したものと見なすことが我見である。この「我」とは誰か。ただ意根のみである。
仏が阿含経で説く我見とは、すなわち意根の見であり、我見を断つとは意根に我見を断たせることである。では仏は阿含経で意根について説いたか。もちろん至る所で意根を指している。
意根の我見の本質はすなわち法我見であり、一切の法を我および我の所有と見なし、それらがすべて第八識のものであることを知らない。その中には意根の五蘊我見が含まれ、五蘊を我および我の所有と見なすのである。
意根には我執と法我執があり、それに対応して我見と法我見がある。実際には法我見は五蘊我見を含み、意根にはただ法我見のみがあり、一切の法を我および我の所有と見なす。したがって意根の法我執は我執を含み、意根にはただ法我執のみがあり、一切の法が我および我の所有であると執着する。法我見・法我執が断じ尽くされれば、無明が断じ尽くされ、成仏する。修行は結局この一点に尽きるが、それでも三大阿僧祇劫を要する。もし断固たる決心をもって、断ずべきものは一つも残さず、斬り断つべきものは一つも残さなければ、三大阿僧祇劫は必要なく、苦受もはるかに少なくなる。
意根に我見があるのは、自心の無明によるものであり、学仏修行とはまさに意根のこれらの無明を破り、一切の法が意根のものではなく、すべて第八識のものであること(五蘊十八界を含む)を意根に知らしめることである。そうすれば意根は徐々に我執と法我執を断ち切り、無明が断じ尽くされて仏道を成就する。
衆生の無明はすべて意根の無明であり、六識の無明は意根の無明から生じ、意根の無明によって染め出されたものである。意根に無明がなければ、我見・我執もなく、法我見・法我執もない。小さな我・妄我の全体が意根であり、それに対応する大きな真我・第八識がある。両者が和合して世間の一切の法を顕現する。一方は我執的で有我的性質を持ち、もう一方は随順的で無我的性質を持つ。修行とはすなわち意根を修めることであり、修めるべき他はない。一切の法はすべて意根のために奉仕するのである。
この理を理解すれば、世間の一切の法の来龍去脈が分かり、仏道修行が何のために、どのように修めるのかが分かる。心は澄み渡り、遮るものもなくなる。
もし誰かに勇猛心があれば、決死隊を編成し、互いに監視し協力し合い、一切の我を死に至らしめることができる。我など何の役に立つのか。生死の根である我がある限り、大自在を得ることも、大解脱を得ることもできない。仏法の修証の全過程はすなわち看破と放下の過程である。看破することはすでに非常に困難であり、放下することはさらに難しい。一切を放下すれば、成仏する。
9
+1