衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月30日    日曜日     第1 回の開示 合計1655回の開示

阿含経に説かれる我見

六識の機能作用を自己の機能作用と見なすことが、我見である。六識の見を自己の見と執着するのが、我見である。六識が六つの窓口で得る情報を自己が了別したものと見なすことが、我見である。六識が六入処で受ける感受を自己の受と見なすことが、我見である。六識が六塵に対する思想観念を自己のものと見なすことが、我見である。六識の身口意行の造作を自己の造作と見なすことが、我見である。この我とは誰か。ただ意根のみである。

仏が阿含経で説く我見とは、意根の見を指す。我見を断つとは、意根に我見を断たせることである。では阿含経で仏は意根について説いているか。もちろん至るところで意根を示している。

意根の我見の本質は法我見であり、一切の法を我及び我所と見なし、全てが第八識のものであることを知らない。その中に意根の五蘊我見があり、五蘊を我及び我所と見なすのである。

意根には我執と法我執があり、対応して我見と法我見がある。実際には法我見は五蘊我見を含み、意根には法我見のみ存在する。一切の法を我及び我所と見なす。よって意根の法我執は我執を含み、意根には法我執のみ存在する。一切の法が我及び我所であると執着し、法我見・法我執を断じ尽くせば、無明が断じ尽き、仏となる。修行はただこの一事に過ぎないが、三大阿僧祇劫を要する。もし断固たる決心で断除すべきものは一切残さず、断ち切るべきものは一切残さなければ、三大阿僧祇劫を要せず、苦受も大いに減少する。

意根に我見があるのは、自心の無明による。仏法を学び修行するとは、意根のこれらの無明を破り、一切の法が意根のものではなく第八識のものであること(五蘊十八界を含む)を悟らせることである。これにより意根は徐々に我執と法我執を断じ、無明を断じ尽くして仏道を成就する。

衆生の無明は全て意根の無明である。六識の無明は意根の無明から生じ、意根の無明に染め出されたものである。意根に無明がなければ、我見・我執も法我見・法我執も存在しない。小さな我・妄我は意根であり、大いなる真我である第八識と対応する。両者和合して世間の一切の法を顕現する。一方は我執に任せた性質を持ち、他方は無我に随順する性質を持つ。修行とは意根を修めることであり、修めるべき他はない。一切の法は意根のために存在する。

この理を悟れば、世間一切の法の来龍去脈が明らかになり、仏道修行が何のために如何にして行うかが分かる。心は澄み渡り、遮られるものがない。

もし勇猛心ある者がいれば、敢死隊を組織し、互いに監視協力し、一切の我を死滅させよ。我など何の役に立とう。生死の根である我があっては大自在を得られず、大解脱も得られない。仏道修行の全過程は看破と放下の過程である。看破することさえ既に容易でなく、放下することは更に難しい。全てを放下すれば、即ち仏となる。

——生如法師の開示
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