雑阿含経巻第五の原文:「いかにして受が即ち我であると見るのか。六受身――眼触によって生ずる受、耳・鼻・舌・身・意触によって生ずる受をいう。この六受身の一つ一つを見て我であるとし、我は受であるとする。これを『受即是我』という。いかにして受が我とは異なると見るのか。色は我であり、受は我の所有であると見る。想・行・識は我であり、受は我の所有であると見る。これを『受異我』という。
いかにして我の中に受があると見るのか。色は我であり、受はその中にある。想・行・識は我であり、受はその中にあると見る。いかにして受の中に我があると見るのか。色は我であり、受の中に住し、四体に遍く満ちる。想・行・識は我であり、受の中に住し、四体に遍く満ちると見る。これを『受中我』という。
釈:いかにして受蘊が我であるのか。受蘊とは六受身である。眼根が色塵に触れて眼識を生じ、眼識には受がある。耳根が声塵に触れて耳識を生じ、耳識には受がある。鼻根が香塵に触れて鼻識を生じ、鼻識には受がある。舌根が味塵に触れて舌識を生じ、舌識には受がある。意根が法塵に触れて意識を生じ、意識には受がある。意根はこの六つの受をすべて我であるとし、我(意根)こそが受であると考える。これを受即是我(意根)という。
いかにして受が我とは異なると見るのか。意根は色蘊が我であると考えるならば、受蘊は我の所有するものとなる。意根が想蘊・行蘊・識蘊を我と見なせば、受蘊を我の所有するものとする。これを受異我という。
何が我(意根)の中に受があると見ることか。意根が色蘊を我と見なせば、受蘊は色蘊の中にある。意根が想蘊・行蘊・識蘊を我と見なせば、受蘊は想蘊・行蘊・識蘊の中にある。受蘊は我の所有するものである。
何が受の中に我があることか。意根が色蘊を我と見なせば、色蘊は受蘊の中に住し、我は受蘊の中に住し、受蘊は四肢全身に遍く満ちる。意根が想・行・識蘊を我と見なせば、想・行・識蘊は受蘊の中に住し、我は受蘊の中に住し、我は身体全身に遍く満ちる。これを受中有我という。
上文の「我」は、色蘊を我とする我であり、他の蘊を我所とし、受蘊を我とし、さらに他の蘊を我所とするものである。このように類推すれば、この我は意根の我である。これを第八識に置き換えると、経文の意味は通じなくなる。ここでの我は第八識とは関係がない。もし我を第八識に置き換えれば、全く説明がつかない。では、観行の結論がどうして想蘊が第八識でないと言えるのか。
ここでも主体である我を第八識に置き換えることはできない。第八識に置き換えれば、前後の文脈が通じず関係がなくなる。これらの機能や作用を我がものとするのは意根であって、第八識ではない。意識もまたこれらをこのように自らの作用であるとする。しかし五識の機能や作用については、意識は我がものとすることができない。なぜなら意識は五識を指揮できず、五識と意識はともに意根によって指揮されるからである。
指揮し主宰できる識こそが主人であり、いわゆる我である。意根が何かをしようとすれば、第八識はそれを成し遂げさせ、成し遂げた後、意根は「私が何事かを成し遂げた」と考える。こうして「我」が現れ、邪見が生じ、主客が転倒する。
意根が何かをしようと想えば、六識はそれに従って行い、成し遂げた後、「私が成し遂げた」と考える。六識が成し遂げたことを知らず、六識の機能や作用を自らのものとする。もし成し遂げられなければ、「私は何事も成し遂げられなかった」と考え、うなだれ、気分がすぐれず、六識という道具が役に立たなかった可能性があることに気づかない。
ある部隊の将軍が千軍万馬を指揮し、戦おうとする時、兵士に告げる。「我が軍の士気は旺盛であり、必ず勝つことができる」と。将軍だけが「我が軍、我が軍」と言う資格がある。彼には指揮権があり、大権を握り、軍隊に対して決定権を持つ。ならば将軍を降伏させれば、軍隊全体が降伏し、戦いは終結する。愚かな者はそうではなく、兵士を一人一人降伏させ、数人の兵士を捕らえれば大功を成し遂げたと考え、どらを鳴らし叫ぶ。「我々は勝利した」と。しかし間もなく相手の将軍が大部隊を率いて押し寄せ、愚かな者は軍隊を維持できず敗北する。
意識に我見を断たせれば満足し、勝利を叫ぶ。しかし意根の主人公たる我見は熾盛で、至る所に我を執着し、意識は主人に服従せざるを得ず、我に利することを行い、我の心、我の行いが相変わらず現行する。このような修行に何の役に立つだろうか。賢明な知恵者は大木を伐る時、必ず根元を断つ。愚かな者は葉を摘み枝を折り、枝を折れば大木はすぐに倒れると考える。しかし折られた枝は大木の生長に影響せず、大木は依然として生き続ける。
意根の主人は両端をつなぎ、一方で第八識の機能や作用を握り、他方で六識の機能や作用を握り、すべてを我がものとし、すべてを我のために用いる。この我は強靭で揺るがし難く、それゆえ生死はかくも固く、無量劫また無量劫の輪廻を繰り返す。意根の我見を断つことはそれほど困難である。多くの人々は早く我見を断とうと、化城(仮の城)を設け、意識で考え考え我見を断ったと思い、この化城で休息し、安全だと思う。ある日突然、主人が激怒し、化城の家屋は崩れ落ち、再び風雨や日照りに耐えなければならなくなる。
実際、大乗経典であれ小乗の阿含経であれ、この主体たる我は暗に意根を指しており、意識を指すのではない。智慧ある者は自ら経典の中でこれを味わうべきである。もし私が一度にすべてを明らかにすれば、ある者は狂気に陥り、耐えられなくなる。しかし私はなおもゆっくりと少しずつこの意味を掘り下げ、真理を顕かにし、迷える衆生を救済しよう。
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