衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月30日    日曜日     第6開示 合計1660開示

二種の無我性を分別する

苦・空・無常・無我の法を観行 (vipaśyanā-caryā) し、最終的に世俗界の五蘊 (pañca-skandha)・十八界がすべて生滅する無我の法であると実証する。五蘊が確かに生滅性であると実証して初めて、無我であると知ることができ、徐々に五蘊の活動を滅除していくようになる。最初は五蘊の活動を減らすことであり、五蘊の活動に興味を持たなくなる。無我であり、生滅するものであり、変異するものであり、空 (śūnyatā) であり、無意味なものであると知るからである。

第八識を観行し参究するというのは、その観行の目的は五蘊の中の第八識を実証することにあり、五蘊と第八識の関係を観察し、最終的に一妄一真を実証し、いかに妄であるか、いかに真であるかを実証することにある。

第八識がどのように具体的に五蘊を出生しているかを観察すれば、五蘊が確かに虚妄不実で無我であると証得する。同時に第八識の真実で永遠に存在する性質を証得し、第八識が五蘊身の中にある清浄 (viśuddha/pariśuddha) 性を観察すれば、第八識の無我性を証得する。

この二種の無我性は指し示すところが異なる。苦・空・無常・無我性は、生滅無常に対応する存在しない無である。この存在しない我とは、七識の我であり、仮の我であり、滅除すべき我である。

第八識の我は、不生不滅に対応し、真実性に対応し、清浄に対応する。第八識の無我性は、第八識の心の中には自分を認知することがなく、私心がなく、我心がないことを表している。

この二種の無我を決して混同してはならない。さもなければ正しく修行することができない。無我の妄心は必ず滅さなければならず、無我の第八識は永遠に滅しない。

二種の無我には二つの意味がある。七識の無我とは、真実性がなく、毀壊性があるということである。第八識の無我とは、私心・我性・作主性・執著性がないということである。七識が第八識に依って無我に修到すると、第八識の無我・無私・不執著にもやや類似したものとなる。

我性が軽微な人は、自分を否定することに敢然と向かい、非を知れば即座に改め、転換が速い。我性の重い人は、新たに如理に思惟 (manasikāra/manana) することを肯んじず、自分を少しでも否定することを望まず、自分の非を検討し出すことが容易でなく、死んだ理に固執し、自分を改めようとしない。

禅那 (dhyāna)・じょう (samādhi) がないと、思惟が粗雑になり、論理的思考ができず、これらの法義の是非の紛らわしいところを整理することが根本的にできない。頭脳が混乱していて、特に複雑な法義であれば、手がかりがなく、どこから手をつけてよいかわからないと感じる。だからこそ、じょう (samādhi) は非常に重要なのだと言われるのである。

——生如法師の開示
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