苦空無常無我の法を観行し、最後に世俗界の五蘊十八界が全て生滅する無我の法であることを実証する。五蘊が確かに生滅性であることを実証して初めて、それが無我であることを知り、次第に五蘊の活動を滅していくのである。最初は五蘊の活動を減らし、五蘊の活動に興味を失う。無我であり、生滅し、変異し、空で無意味であると知るからである。
第八識を観行し参究する。その観行の目的は五蘊中の第八識を実証し、五蘊と第八識の関係を観察し、最終的に一妄一真を実証し、如何に妄であり如何に真であるかを実証することにある。
第八識が如何に具体的に五蘊を出生するかを観察すれば、五蘊が確かに虚妄不実で無我であることを証得する。同時に第八識の真実永遠の存在性を証得し、五蘊身中の第八識の清浄性を観察すれば、第八識の無我性を証得する。
二種の無我性は指向が異なる。苦空無常無我性は、生滅無常に対応する存在しない無である。この存在しない我とは七識の我、仮の我、滅すべき我である。
第八識の我は不生不滅に対応し、真実性に対応し、清浄に対応する。第八識の無我性は、第八識の心中に自己を認知せず、私心なく、我執なきことを表す。
この二種の無我を混同してはならない。さもなくば正しく修行できない。無我の妄心は必ず滅すべきであり、無我の第八識は永遠に不滅である。
二種の無我は二つの意味を持つ。七識の無我は真実性なきこと、壊れやすいこと。第八識の無我は私心・我性・主導性・執着性なきこと。七識が第八識に依って無我に修まるとき、第八識の無我無私不執着に類似した境地も現れる。
我性の軽い人は自らを否定する勇気があり、非を知れば即ち改め、速やかに転ずる。我性の重い人は再び理に従って思惟せず、自らを少しも否定せず、自らの非を検討し難く、理に固執し、改めようとしない。
禅定なき者は思惟が粗雑で論理的思考なく、これらの法義の是非錯謬を整理できず、頭脳は混乱した複雑な法義に陥り、糸口を見出せず手の施しようがなくなる。故に禅定は極めて重要である。
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