衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年07月01日    月曜日     第2 回の開示 合計1662回の開示

妄我と真我は同等ではない

私は仏法を学ばず、修行せず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、自在に振る舞い、自然のままに任せる。この「我」とは何を指すのか。第八識を指すのである。ここでの主体を七識と置き換えることは可能か。七識と五蘊は第八識のように、仏法を学ばず、修行せず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、自然のままに任せることはできるか。できない。二つの「我」は互いに置き換えられるか。これもできない。

ある者が言う、「第八識を学び、第八識に依止し、第八識に転依すべきならば、第八識のようであるべきだ」と。この言葉は正しいか。正しくないとも言え、正しいとも言えない。厳密な論理思考が必要である。どの面で第八識に学ぶべきか、どの面で学ぶべきでないか。いつ第八識に学ぶべきか、いつ学ぶべきでないか。成仏後の七識は第八識と同じく、仏法を学ばず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱せず、成仏しない。成仏前、衆生の段階では仏法を学び、戒律を守り、禅定を修め、智慧を開き、解脱を求め、成仏を求めるべきである。

成仏前には、第八識が五陰身の働きにおいて示す清浄性、貪瞋痴なき性質を学ぶべきである。成仏後の七識は第八識と同じく清浄であるから、もはや第八識の清浄性を学ぶ必要はない。仏は無学なる者であるから。

七識と第八識という二つの「我」は、時に互換可能であり、時に不可能である。二つの「我」を明確に区別してこそ、修行は成就する。もし混同するならば、修行も成就も叶わない。

——生如法師の開示
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