衆生が天国へ、地獄へ、極楽浄土へ、そして生まれ変わるのは、末那識が阿頼耶識を連れて行くのか、それとも阿頼耶識が末那識を連れて行くのか。いったい誰の末那識が阿頼耶識を連れて地獄へ行くことを望むだろうか。
臨終における受生の事柄は、末那識によって決まるようでいて決まらず、阿頼耶識によって決まるようでいて決まらず、業力によって決まるようでいて決まらない。結局何によって決まるのか。もし末那識が決めるのなら、末那識は三悪道へ行くことを望まない。もし阿頼耶識が決めるのなら、阿頼耶識は主体とならず、事柄に関与しない。もし業力が決めるのなら、業力は須弥山よりも大きく、必ず三悪道へ行くことになり、修した善法は無用となり、仏菩薩もどうしようもなくなる。もし願力が決めるのなら、多くの人の願力は業力に抵抗するには不十分である。
来世の行き先は、総合的な要因によって決まり、業力に末那識の念力を加えたものである。業力は固定的でもあり、また不確定でもある。善法を修すれば業力を変えられ、清浄な願力は一部の業力を抑制できる。臨終における末那識の強大な念力は、業力を抑制しうる。そして末那識の念力と願力はどちらも、修行によって仏法を熏習することで養うことができ、善業の種を積めば一部の業力を防ぐことができる。善業が悪業を上回るか、あるいは臨終において善業の縁が熟し、末那識の念力が強大で福徳が現前すれば、善道への往生を保証できるのである。仏法を修行して善心を染めるには、厳格に戒律を守り、身・口・意が規範を越えないようにしなければならない。そして十分な福徳は悪縁の出現を防ぎ、善業を成熟させて作用させることができるのである。
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