以下のように私は聞いた。ある時、薄伽梵(ブッダ)が王舎城の迦蘭陀竹林において、大比丘衆、千二百五十人とともにあった。皆、阿羅漢であり、諸漏はすでに尽き、再び煩悩はなく、自在を得て、心は善く解脱し、慧は善く解脱していた。
「漏」とは貪・瞋・痴の煩悩を指す。「尽」とは断じ尽くすことで、貪・瞋・痴の煩悩がすべて断じ尽くされた状態を漏尽という。我を断じて初果を証した後、初禅定を修めて一部の煩悩を断除し、三果を証得する。初禅定が発起した後、まず貪欲の煩悩を断ち、次に瞋恚の煩悩を断つ。これに初果の三結(三縛結)の断除が加わり、五下分結を断除する。四果に至ってさらに五上分結を断除する。この時、凡夫異生の散乱心・我慢心・三界への貪愛・我執・我愛などがすべて断除され、すなわち意根の自我への執着性が尽きる。すべての貪・瞋・痴・慢・疑・悪見といった見思惑はすでに断じ尽くされ、三界の法へのいささかの貪愛もなく、これらの煩悩がことごとく断じ尽くされた状態が「漏尽」である。もし煩悩が残っていれば有漏であり、有漏であれば三界を出ることができず、依然として三界で苦しみを受ける。
例えば三果の者には、なお我慢・我執の煩悩が断じ尽くされていないため、直接三界を出ることはできず、中有身において再び思惟観行し、煩悩を断じ尽くして初めて三界を出る場合がある。ある三果人は命終して天界に昇った後、天上で残る煩悩を断除し、その後でなければ三界を出られない。煩悩は自らを三界六道に束縛し、出離できないため、全ての衆生は煩悩を断じて初めて三界を出られる。四果阿羅漢を証得し、尽世間智を具えてこそ、三界世間法を了尽できる。つまり阿羅漢たちは皆、如何にして自らの五蘊を滅尽して世間を出離するかを知っており、これは小乗の者の智慧に属する。阿羅漢たちは皆、一切智を具足し、生死を出離する智慧を具足しており、これを慧解脱という。
煩悩を断除して初めて自在を得る。この「自在」とは何を指すのか。すなわち七識心の自在を指し、煩悩の束縛がなくなり、世間の一切の法に対し、心に掛礙がなく、心が解脱し、束縛を受けないことをいう。もちろん、世間の一切の法には大乗法は含まれない。大乗法については、阿羅漢は依然として自在ではない。なぜなら彼らは大乗法を証得していないからである。しかし五陰世間の世俗生活においては、彼らの心は自在であり、いかなる六塵境界にも束縛されず、三界への貪愛結縛がことごとく断じ尽くされ、彼らの心はすでに解脱を得て、智慧もすでに解脱を得ている。心解脱とは心が自在を得たことであり、智慧解脱は少なくとも慧解脱の阿羅漢を指す。
阿羅漢は慧解脱と倶解脱の二種に分かれる。慧解脱の阿羅漢は初禅定まで修めており、まだ四禅には至っておらず、五神通はないが、智慧の面ではすでに解脱を得る能力を有している。智慧によって解脱を得たとはどういうことか。すなわち、この智慧によって三界を出離できることをいう。彼はまだ二禅・三禅・四禅定はないが、初禅定を有し、煩悩が断じ尽くされ、煩悩や我執の束縛がないため、命終すれば五蘊十八界を滅尽し、三界を出離する。解脱の智慧があれば、もはや世俗法に繋縛されず、これを心善く解脱し、慧善く解脱するという。
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