過ぎ去り来る今において、照らし了えて障りなし。これ大那伽なり。仏の教えの如く、所作はすでに弁じ、大いなる重荷を棄て、己が利を得、すでに流転を断つ。生死には苦あり。正しき智力をもって、善く衆生の心の赴くところを知る。かくの如き大声聞衆、長老舎利弗を上首とし、また無量の菩薩摩訶薩衆と俱に会集せり。
那伽梵は龍族を指す。これらの阿羅漢は大龍の如き力を持ち、仏の教えを実践し、一生解脱を求めれば即ち解脱を得、生死の重き荷を捨て、ここに解脱を得て身心を休める。四果阿羅漢は常に説く「我が生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、所作はすでに作し、自ら後に受くることなきを知る」と。阿羅漢の為すべきは貪瞋痴の煩悩を断尽し、三界を出離して解脱を得ることであり、これが彼らの一生の為すべきことなり。「所作已弁」は為すべきこと全てを完成せしめたるを意味す。三果阿羅漢は未だこれを称せず、四果羅漢のみがこれを称し得る。三果人はなお煩悩断尽せず、我執我慢残存す。四果阿羅漢は全ての貪瞋痴煩悩を断じ、諸漏已尽にして初めて「所作已作」と称し、後に受くることなきを宣言し得る。
棄つる大いなる重荷とは何か。五蘊十八界こそ生死の大いなる重荷なり。五欲六塵は大いなる重荷なり。阿羅漢は大いなる重荷を棄て、心に煩悩なく、三界の負担皆無く、衆生の苦しみを顧みず、全ての荷物と担いを下ろし、三界を突き抜けん。己が利を得、ついに利益を得て生死の苦を了え解脱を得たり。阿羅漢はただ自ら三界を出離し、再び生死輪廻の苦を受けざるに止まり、他を顧みず。仏法を学ぶ者皆この如き心持ちなれば、仏法は継続せず、滅び去らん。後世の衆生、仏法を宣べる者なく、教え導く者なく、衆生は仏法より何らの利益も得られず、生死の苦恼解脱せず、常に暗黒の深淵に在らん。
故に小乗阿羅漢の法は究竟の法に非ず、一時的に修学すべきものなり。大乗仏法を学ぶ菩薩は、小乗仏法を避け難く修証せざるべからずと雖も、涅槃の道は歩まず、自ら成就したる後も他を利する。これ菩薩の発心なり。菩薩の心量広大、自らを度するのみならず、己と同じく輪廻の苦を受ける全ての衆生を度し、彼らを同じく究竟の解脱を得せしむ。これ大心菩薩の為すところなり。故に菩薩はまた大心衆生と称せらる。
「已に流転生死有苦を断つ」とは、阿羅漢たちはすでに三界に流転する生死の苦を断截せり。「有」は欲界有・色界有・無色界有を含む。即ち欲界には欲界の法あり、色界には色界の法あり、無色界には無色界の法あり。この三界の「有」は皆苦なり。三悪道のみならず、我ら人道も苦なり。では天人はどうか。彼らも同様に苦あり。「楽」の中に苦は無きか。楽の中にも苦あり、しかもこの所謂る「楽」そのものが一種の苦なり。楽過ぎてまた苦なり。
1
+1