衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月23日    火曜日     第1開示 合計938開示

大乗顕識経解説

原文:過去・現在・未来にわたり、妨げなく照らし明らかにする。これが大龍の如き者であり、仏の教えの如くである。為すべきことはすでに成し遂げ、重き大いなる荷を棄て、己の利益を得た。すでに流転を断ち、生死の苦しみを有する。正しい智慧の力をもって、善く衆生の心の赴くところを知る。かくの如き大声聞衆の中において、長老舎利弗を上首とし、また無量の菩薩摩訶薩衆が共に集い会している。

那伽梵(ナーガ)は龍族を指す。これらの阿羅漢は大龍の如き力を持ち、真実のままに仏の教えを奉じ、一生解脱を求めれば即ち解脱を得、生死の重き荷を棄て去り、ここに至って解脱し心身を休めるのである。四果の阿羅漢は常に「我が生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、為すべきことはすでに為し終え、自ら後に生を受けることなきを知る」と説く。阿羅漢が為すべきことは貪瞋痴の煩悩を断じ尽くし、三界を出離して解脱を得ること、これが彼らが一生をかけて為すべき事柄である。「所作已办(為すべきことはすでに成し遂げた)」とは、為すべきことの全てを完遂したことを意味し、三果の阿羅漢はまだこうは言えず、四果の羅漢のみがこれを言い得る。なぜなら三果の者には未だ煩悩が断尽しておらず、我執・我慢が断尽していないからである。四果の阿羅漢は全ての貪瞋痴の煩悩を断じ尽くし、諸漏已尽(もろもろの漏れすでに尽き)て、初めて「所作すでに為し終え、後有を受けず」と言えるのである。

重き大いなる荷を棄てる。この重荷とは何か。五蘊十八界こそが生死の大いなる重荷であり、五欲六塵こそが大いなる重荷である。阿羅漢は重き大いなる荷を棄て去ることができ、心に煩悩なく、三界の負担は全て無くなり、衆生が苦しむかどうかにも関わらず、全ての荷物と重荷を下ろし、三界を飛び出るのである。己の利益を得るとは、自らついに利益を得て、生死の苦しみを了え、解脱を得たことを意味する。阿羅漢は自らが三界を出離し、再び生死輪廻の苦しみを受けずに済めば、他のことは関わらない。もし学仏する者が皆このような心構えであれば、仏法は継承されず、仏法は滅び去り、後世の衆生は仏法を宣揚する者もなく、教え導く者もなく、衆生もまた仏法から何ら利益を得ることができず、生死の苦悩を解脱できず、常に暗黒の深淵に陥るのである。

故に小乗の阿羅漢の法は、究極の法ではなく、一時的に修学するに過ぎない。我ら大乗仏法を学ぶ菩薩は、小乗仏法が避けられず必ず修証すべきものであるとはいえ、涅槃のこの道は取らず、自ら成就した後もさらに他を利する、これが菩薩の発心である。菩薩の心量は広大であり、自らを度するだけでなく、自らと同じく輪廻の苦しみを受ける全ての衆生を度し、彼らを同じくことごとく究極の解脱を得させる、それが大心の菩薩のなすところである。故に菩薩はまた大心の衆生とも呼ばれるのである。

「すでに流転生死の苦しみを断つ」とは、阿羅漢たちがすでに三界に流転する生死の苦しみを断ち切ったことを指す。「有」には欲界有・色界有・無色界有が含まれ、すなわち欲界には欲界の法、色界には色界の法、無色界には無色界の法があり、この三界の「有」は全て苦である。三悪道が苦であるだけでなく、我々人道もまた苦であり、では天人はどうか。彼らも同様に苦しみを有する。「楽」の中に苦はあるのか? 楽の中にも苦はあり、しかもこのいわゆる「楽」そのものが一種の苦であり、楽が過ぎた後もまた苦なのである。

——生如法師の開示
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