自我を放下し、無我に至る。二つの「我」は何を指すのか。いずれも妄我を指す。
妄我と真我の論理関係を理解できなければ、大小乗の修行共に困難である。小乗の観行を実践しながら大乗の結論を得、大乗の観行をしながら小乗の結論を得る。このような観行は如何なるものか。支離滅裂で主題から外れている。
世俗界で仏法を知らぬ者が如何にして無我に至れるか。雷鋒などの英雄が世俗事業で成し遂げた所謂無我は、彼らが第八識に転依したのか。小乗の初果から四果まで、皆第八識に転依したのか。理屈の押し付けでは駄目で、実際に観行して体得せねばならない。小乗で真に証果を得た者は、必ず合理的で真実の結論に至り、大乗法に走って大乗の結論を出すことはない。
多くの人の発言は、実際の修証を経たか否かが直ちに分かる。言葉はその人の真修実証の結論か、あるいは思弁的解釈による鸚鵡返しの理論かを明らかにする。
凡夫が説法するやいなや初地・八地菩薩の修行を語るなら、その者は実修を全く理解せず、如何に修行に着手すべきかを知らない証左である。自ら歩んだことのない道を、明確な道筋もなく他人に説く。皆さんは禅定修行に励むべきである。禅定による思惟がなければ論理性を欠き、明晰徹底した理解は得られない。
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