衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月02日    火曜日     第3開示 合計1669開示

私の見る所も我見も異ならず、断じ除くべきです

我見は断ち難く、根深く固まっており、我所見も非常に断ち難く、根深く固まっている。五蘊の一部分の機能作用を我と見做すと、もう一部分の機能作用を我所と見做し、根深く固まった執着として我の、我の所有するものと捉えるのである。

我と我所は一つではなく、すなわち異なり、同じではない。例えば受蘊を我と認めるならば、色蘊は我ではなく私の所有するものとなり、こうして一見色蘊を我とする身見は断たれたように見えるが、実際には色蘊を私の所有物と認めることもまた身見の一種である。我所見は根深く固まっており、これも邪見であって、法に適わず、断ち除くべきである。我見を断った後、知見が正されると、我と我所は異なるものではなく、どちらも我見であり、共に断除すべきであると認識するようになる。受蘊は我ではなく、色蘊は我でもなければ私の所有するものでもなく、両者とも我ではないのである。

我見を断つ前に、受蘊を我と見做し、色蘊を我所と見做し、受蘊は色蘊の中にあり、色蘊は受蘊の中にあり、互いに存在し合い、その体に遍く存在すると考えていた。我見を断った後、知見が正されると、受蘊は我ではなく、色蘊は我所でもなく、受蘊は色蘊の中にはなく、色蘊も受蘊の中にはなく、両者は互いにその中に存在せず、色・受・想・行・識の五蘊は我ではないと認識するようになる。

この問題は難思議であり、禅定の中で、問題を脳裏に、意根に懸けておく必要がある。ある日突然悟りが開け、その意味を通達する時が来るであろう。この結び目が解ければ、我見を断つ障害は排除され、観行の抵抗は小さくなるのである。

——生如法師の開示
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