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日常法話

2019年07月02日    火曜日     第6開示 合計1672開示

五蘊苦空無常無我の観行(vipaśyanā-caryā)(一)

<h2 style="text-indent: 2em;">雑阿含経巻一</h2>

(九)如是我闻。一时。佛住舍卫国祗树给孤独园。尔时。世尊告诸比丘。色无常。无常即苦。苦即非我。非我者亦非我所。如是观者。名真实正观。如是受.想.行.识无常。无常即苦。苦即非我。非我者亦非我所。如是观者。名真实观。圣弟子。如是观者。厌于色。厌受.想.行.识。厌故不乐。不乐故得解脱。解脱者真实智生。我生已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。时。诸比丘闻佛所说。欢喜奉行。

解釈:世尊は諸比丘に告げられる、色蘊は無常であり、無常の法はすなわち苦の法であり、苦の法は我(妄我)ではない、我(妄我)でないならば、我(妄我)の所有でもない、我と我所は異ならず、いずれも我ではない、と。このように観行する人が、こそ真実の観行であり、真の観行者である。このように観行しなければ、如実に観行する人ではなく、如実に観行しなければ、色蘊が非我であることを如実に証得できず、身見を断てない。

色蘊の無常性についての観行の内容は数多く、禅定の中で如理・如法・如実に思惟観行する必要がある。ちょっと考えて観行が終わったことにはできず、心の中で認めたら合格だと考えてはならず、身見を断るのが遠くないと思い込んではならない。実際には、意識がどう考えようと数に入らず、意根に認めさせてこそ真の功夫である。しかも禅定を離れては、意識の想と思惟はいずれも意根まで深く届かず、意根は自らの思量 (manasikāra/manana) を行うことができないため、色蘊が無常であるという真理を理解することができない。意識が普段ごく簡単だと考える道理も、意根にとってはいずれも簡単ではない。それゆえ、禅定の中で深く透徹した思惟をしなければならず、証拠が十分で、理にかなった根拠のあることを努め求め、さらに意根にこれらの証拠と論拠を消化する一定の時間を与えなければならない。

ひとたび意根が色蘊が確かに無常であると理解すれば、神様は感慨を発し、長年月にわたって色蘊のためにあれほど多くの代価を払ってきたのは価値があったのかと考える。神様は価値がなかったと感じ、以後、色身への愛着が減り、軽くなる。これが実修の過程における身心の覚受の変化である。人が真に修行を始めれば、修行が力を発揮している限り、身心は必ず変化が起こるものであり、さもなければ修行がうまくいっておらず、修行が力を発揮していないということである。その場合は、また方法を考え、さらに精進するしかない。

このような実修の過程がなければ、実証は根本的にあり得ない。意識の理解は役に立たず、それは単なる一つの理論にすぎない。理論は誰でも得られるが、実証者は万分の一もいられない。実証者は独自の見解を持っており、必ずしも多くの人に同意させられるとは限らない。なぜなら、大多数の人は実修しておらず、往々にして思い込みであり、実修の筋道を理解せず、まして実証の智慧の境地を知らないからである。思い込みは実修者の思路と大きく異なる。理論家は往々にして思い込みであり、実際の修行の段階と過程を経ていないため、法に対する認識はいずれも粗雑で、雑で雑で、細緻になり得ず、法を説いても的を射ず、詰問に耐えられない。実証者はどんな拷問や詰難を受けても、必ず一定の軌道がある。

色蘊が無常であることの観行がうまくいった後、次の段階は、無常の法がすなわち苦の法であることを観行することである。この段階は自分の思い込みだけではまだだめで、禅定の中で深く思惟しなければならない。なぜ無常の法が苦の法なのか?証拠が十分でなければならず、少しでも牽強付会があってはならず、曖昧であってはならず、疎かであってはならない。色蘊の無常を、真に苦の受として観出してこそよく、しかも心の中(意根)で真に確かに苦であると認め、疑いがあってはならない。意根はひとたび色身の無常苦を理解すれば、必ず苦を好まなくなり、必ず自分が経験してきた苦を感慨し、苦への追求を次第に自覚的に減らしていく。

実修の中で、意根が色蘊の真実の相を知り、真実の理を理解すれば、絶えず感慨や嘆息を発し、そして新しい決定を持つようになる。さもなければ修行が的を射ておらず、情思意解の理論が実際の観行より多いということである。

次に最も重要な点は、どうすれば意根に苦のものは我ではないと認めさせられるかであり、これが最も難しい一歩である。以前、意根はずっと色蘊を我あるいは我の所有だと考えていたが、今この知見を否定し、180度方向転換して、以前自分が間違っており、色蘊は根本的に我と我所ではないと認めさせる。この難度はやはり相当に大きい。

意根はひとたび色蘊が我と我所ではないと認め、確認すれば、身見は断たれる。しかし身見は断ちやすいだろうか?実に断ちにくいのである。誰もが自分のこの一世の毎年毎月毎日を反観してみれば、心の中に根深く染みついた身見があり、色身を真実のものとし、我とし、我のものとし、貪愛し貪執し、念念がすべて色身の我であり、手厚く養い世話をし、衣食住用行ではまず自分のことを考え、色身のために造作した業行は数え切れない。それゆえ、身見は確かに断ちがたい。

しかし理論上、身見を断るのはそれほど困難ではない。人によっては、しばらく考えて色蘊が我ではないと分かり、自分は身見を断ったと考える。この世界で理論上、身見・我見を断った人はいったい何人いるのか、もう数えきれない。知見の上で五蘊は無我だと考えることを、知解宗徒という。この言葉は六祖が先に口にしたものである。六祖は神会和尚が知解宗徒だと予言したが、果たして神会和尚は一生を知解の上に落とし、実証はしていなかった。

——生如法師の開示
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五蘊苦空無常無我の観行(二)

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