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日常法話

2019年07月02日    火曜日     第7開示 合計1673開示

五蘊・苦空・無常・無我の観行(二)

行の色蘊を観じてその無常・苦・空・無我を認めた後、さらに受蘊の行が無常であることを観じる。無常であるものは苦であり、苦であるものは無我である。その方法と手順は色蘊を観じるのと同じであり、禅定がなければならず、理にかなった思惟がなければならず、証拠が不十分ではならず、意根が日夜精進して思量しなければならない。意根が一度、受蘊が無常であること、無常であるものは苦であること、苦であるものは私や私の所有ではないことを認めると、その思想と観念は変わり、知見が変わり、心の行いも少しずつ変化していく。

各段階の観行の過程において、意根が一つの真理を認識し、自らの過去の無知をはっきりと認めると、感慨や嘆息が生じ、一つの決心と態度が生まれ、それが身心の変化を促す。したがって、各人が実修を経たかどうか、実修中であるかどうかは、身体の状態と精神の状態に反映され、隠しようがない。

受蘊の観行の後、さらに想蘊を観じ、想蘊の無常を観じ、想蘊の無常の苦を観じ、想蘊の苦は私ではなく私のものでもないことを観じ、最後には真に認めなければならない。少しでも躊躇があってはならない。その後、行蘊と識蘊の無常性を観じ、行蘊と識蘊の無常の苦を観じ、さらに苦は私ではなく私のものでもないことを観じる。このような観行こそが真実で実在する観行であり、最終的に合理的で法にかなった如実の結論を得て、身見と我見を断除することができる。

仏はこう説かれた。聖なる弟子たちは、このように如実に観行した後、色蘊に対して厭離の心を生じる。色蘊に厭離するゆえに、色蘊を喜ばず、色蘊を喜ばないゆえに、色蘊から解脱し、色蘊に束縛されなくなる。真に身見を断除した後は、必ず多かれ少なかれ厭離の心が生じる。もし厭離が生じなければ、身見は断除されていない。これは必定であり、仏陀の説かれたことはすべて真実の言葉である。仏の言葉に依り、仏の言葉を信受して修行すれば、正しい軌道から外れることはない。もし自らがすでに身見を断除したと考える者がいれば、自心を反観し、本当に色身を好まなくなり、色身を宝愛せず、色身を維持しようと方策を弄さなくなったかどうかを点検すべきである。理論的に身見を断った知解宗徒には、このような現象は一切なく、身心にも何の変化もなく、生活習慣にも何の変化もなく、以前の凡夫のままである。

色身のためにどんな悪業を造ろうかなど、考える必要すらない。色身を喜ばず、色身を宝愛しなければ、悪業を造る必要はなく、善業は引き続き造られる。それは必定である。心がまだ一定の空の境地に達していないからである。

仏はこう説かれた。聖なる弟子たち、このように如実に観行する者は、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊に厭離する。厭離するゆえに、受想行識蘊を喜ばなくなり、喜ばないゆえに、心は解脱を得て、受想行識蘊に束縛されなくなる。心が解脱を得た者は、すでに如実の智慧、解脱の智慧を証得している。四果の阿羅漢はこう言うであろう。私の生命はこの世で終わり、もはや来世はない。私の清浄な梵行はすでに確立された。今世で私が成し遂げたいことはすべて完了した。私は自ら証明できる。もはや来世はなく、再び受生することはないと。

もちろん、仏の説かれた厭離と不喜楽には、初果から四果に至る段階が含まれる。心は次第に色受想行識に厭離し、ますます色受想行識に厭離し、ますます色受想行識を喜ばなくなり、心はますます解脱していく。解脱の明らかで明確な兆候は、観行の智慧が深まるにつれ、禅定がますます深まり、初禅定に達した時、定中で貪欲と瞋恚の二つの煩悩を断除し、心が欲界から解脱することである。観行の智慧がさらに増進する時、三界の生死から解脱する大智慧が現れる。それが慧解脱の阿羅漢である。

自ら果を証したと考える者で、身心が最初から最後まで何の変化もない者は、必ず理論上の証果であり、理論上の知見を得たに過ぎず、業障と生死に耐えることはできない。神会和尚は十三歳の時、数か月かけて山を越え谷を渡り、六祖を参拝した。六祖は一目見て彼が知解宗徒であることを見抜き、彼が九十歳で円寂するまで、ずっと知解宗徒のままであった。実修と実証は容易か?決して容易ではない。仏道は容易に求められるものではないと言うなかれ。無始劫の業障と習性は克服が難しく、業障と習性の関門を越えられなければ、どうして心を安じて実修できようか?

修行は人が生まれ変わり脱皮する過程であり、また漸進的な過程でもある。大根器や極大根器でなければ、中間の一歩一歩の変化の過程なしに、突然証果して自らを変えることなど考えてはならない。身心の変化は実際の修行の開始とともに現れ、ますます明らかになり、変化はますます多く、感悟もますます深まる。量の蓄積がますます多くなり、一定の量に達して初めて、質的な飛躍が起こり、身心が脱皮し、生まれ変わるのである。

——生如法師の開示
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小乗の聖弟子の観行は第八識に及びえない

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