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日常開示

2019年07月02日    火曜日     第8 回の開示 合計1674回の開示

小乗の聖弟子の観行は第八識に及びえない

五蘊が無我であることを観行した後、もし「色受想行識は苦であるが、苦ではないのは第八識であって第八識ではない」という結論に至った場合、これは論理的に整合するでしょうか。

色受想行識が苦である第八識ではないことを証得すれば、次第に色受想行識を厭離し、それを喜ばなくなるでしょうか。もしそうならば、人は第八識に貪愛を転じ、第八識を喜び楽しむようになるでしょう。小乗の聖弟子は第八識を喜び楽しみ、第八識に貪愛することはできるでしょうか。このような現象は存在するでしょうか。もし存在するならば、阿羅漢は第八識を喜び楽しむが故に菩薩道を修学し続け、自利利他を行い、無余涅槃に入り三界世間から解脱することはできなくなります。

理論的には五蘊が第八識ではないことを知ることができます。仏が第八識を説かれるのを聞いた瞬間、誰もが理解できることです。多くの人は一考すれば、色蘊が絶えず往来するものであることを知り、当然それは真実の我でもなければ真実の第八識でもないと理解します。五蘊が第八識ではないことを観行するために苦心惨憺する必要はなく、論点が大きく逸脱しています。

五蘊が苦であることは第八識および第八識の所有物ではない、これは論理的に整合するでしょうか。意根は当然、五蘊を我(自己)のものと認識し、第八識のものではないと考えます。それ故に五蘊を我として執着し、無量の生死苦が生じるのです。もし凡夫の意根が五蘊を第八識および第八識の所有物と認識するならば、凡夫の意根に我見と我執はまだ存在するでしょうか。遍計所執性はまだあるでしょうか。意根が何を執着するのか、何も彼のものではないというのでしょうか。

五蘊の本質は即ち第八識であり、五蘊を形成する六大の種子は全て第八識に由来します。第八識が投資して生じた五蘊であるならば、五蘊は当然第八識のものです。観行した後、どうして五蘊が第八識ではないと認識するのでしょうか。不思議ではありませんか。理論には必ず尽きる日が来ます。必ず行き詰まる日が来て、自説を完結させることができなくなります。実証者は縦横に説いても理に適い、全てが整合し、誰も反論できません。

——生如法師の開示
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