五蘊の観行によって無我を理解した後、もし「色受想行識は苦であるが、苦なのは第八識ではなく、第八識に属するものでもない」という結論に至った場合、これは理にかなっていると言えるでしょうか。
色受想行識が苦であり第八識に属さないことを証得すれば、次第に色受想行識を厭離し、これを好まなくなることができるでしょうか。もしできるならば、修行者は第八識に貪愛を移し、第八識を喜び楽しむことになるでしょう。小乗の聖弟子たちが第八識を喜び楽しみ、第八識に貪愛することはありえるでしょうか。そのような現象は存在するでしょうか。もし存在するならば、阿羅漢は第八識を喜び楽しむがゆえに菩薩道を修学し続け、自利利他を行い、無余涅槃に入り三界世間から解脱することができなくなります。
理論的には五蘊が第八識でないことは理解できます。仏が第八識について説かれるのを聞いた瞬間、誰もが理解できることです。多くの人々は一考すれば、色蘊が絶えず往来するものであり、当然ながら真実の我でもなければ真実の第八識でもないことを理解します。五蘊が第八識でないことを観行するために苦労して思惟する必要はなく、あまりにも本題から外れすぎています。
五蘊は苦であり、第八識のものでもなければ第八識が所有するものでもない、というのは理にかなっているでしょうか。意根は当然、五蘊が我(自己)のものであり第八識のものではないと考えているからこそ、五蘊を我として執着し、無量の生死の苦があるのです。もし凡夫の意根が五蘊は第八識のものであり第八識が所有すると考えているならば、凡夫の意根に我見や我執はまだ存在するでしょうか。遍計所執性はまだあるでしょうか。意根は何を執着するというのでしょう。何も彼のものではないのですか?
五蘊の本質はすなわち第八識そのものです。五蘊を形成する六大の種子はすべて第八識に由来し、第八識が投資して生み出した五蘊です。当然、五蘊は第八識のものなのです。観行の後、なぜ逆に五蘊は第八識ではないと考えるのでしょうか。おかしいとは思いませんか?理論には必ず行き詰まる日、通じなくなる日が来るもので、自説を完璧に説明できなくなるものです。一方、実証者は縦に説いても横に説いても道理が通じ、理にかなっており、誰も反論できません。
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