原文:また、諸の我見は略して二種あり。一には倶生、二には分別なり。倶生の我見は、無始より来る内因の力の故に、恒に身と倶にあり。邪教及び邪分別を待たずして、任運にして起こる。故に倶生と名づく。これまた二種あり。一には常に相続し、第七識に在りて第八識を縁とし、自心の相を起こして、即ち我と執する。これを我見と名づく。
釈:我見は大略二種あり。一つは倶生我見、もう一つは分別我見である。倶生我見は、無始劫以来、意根自身の無明力の故に、生生世世にわたり五蘊身に随逐して相捨離せず、意識の邪教を待たず、また意識の邪分別による熏染を受けず、意根自ら縁に随って我見を生じ、五蘊身を我及び我所と認取する。故に倶生我見と称され、五蘊身が生まれながらにして意根に具わる我見であり、母胎内においてすら我見があり、胚芽を我及び我所とする。
倶生我見は更に二種に分けられる。一つは生生世世にわたり相続して断絶なく、未来も断たれない。真に我見を断じた後でなければ、もはや倶生我見は存在しない。この種の我見は何によってあるのか。意根の無始劫以来の無明により、第八識が出生し執持する一切の法を、悉く我及び我の所有と見做し、従って一切の法に対する執着を生じる。これを遍計所執識と称し、法界の実相を知らず、一切の法が第八識に由来し、第八識の所有であることを知らない。故にこれを顛倒見、錯執と称する。
意根の我見は総じて法我見と呼ばれ、一切の法をことごとく己がものと見做す。その中で意根は第八識が出生し執持する五蘊をも我及び我の所有と見做す。これが即ち顛倒の邪見・錯見であり、五蘊我見と称される。我見があるが故に、我執が生じる。この種の我見は苦集滅道の四聖諦を修学することによってのみ断除でき、断除した後、意根の五蘊身に対する執着が次第に減軽・消除され、我執が断尽すれば三界を出て解脱を得る。
原文:二には間断あり。第六識に在りて五取蘊を縁とし、或いは総、或いは別に自心の相を起こして、即ち我と執する。これを我見と名づく。かくの如き二種の倶生我見は、微細にして断じ難し。数数に勝れたる無我観を修習して、方能く除滅す。
釈:倶生我見の第二種は、間断のある意識の我見を指す。意識が五取蘊を縁とする時、或いは五取蘊の総体相を我及び我所と見做し、或いは五取蘊の個別相を我及び我所と見做し、従って五取蘊を我及び我所として執取する。これが即ち意識の我見である。意識我見の出生には前提が必要であり、意識が五蘊の相貌を理解し、五蘊の相貌を識別でき、五蘊の機能と内包を懂得して、初めて我見を生じる。そうでなければ我見は存在しない。
例えば意識が眼識の色を見る機能を我及び我所と見做す場合、まず意識は此時が色を見ていること、此時が私が色を見ていることを知らねばならず、心中に「我」の概念がなければならない。「我」の概念がまだ熏習されていなければ、我見はない。例えば嬰児が生まれたばかりの時は、自身の父母に対する分別力がなく、父母を認識しない。故に誰が抱いても構わない。少し成長して父母を認識すると、これが私の父母であると知り、従って父母に貪執し、他人に抱かれたり見られたりすることを好まなくなる。
嬰児が生まれたばかりの時は、食品に対する分別力がなく、自我に対する認識も不明瞭である。故に食品を我及び私のものと見做して貪執することはなく、父母が食品を他の子供に与えても、嬰児は異議を唱えず、泣き叫んだり怒ったりしない。もう少し成長すると、私と他の人々に対する認識が生じ、食べ物・衣服・玩具などに対する認識ができ、我見・我所見が生じる。従って自己の所有物に貪執し、例えば触れられることを許さなくなる。故に意識の我見は生まれながらのものではなく、後天的な学習認知を通じて生じるものであり、また意根の熏染に依って初めて我見・我所見が具わるのである。
意根と意識のこの二種の倶生我見は、行相が甚だ微細であるが故に断じ難い。ただ常に不断に殊勝なる無我観行を修習し、長期にわたり熏習して初めて滅除できる。故に意根の倶生我見を断除することは容易ではない。倶生我見が断たれなければ、意根の倶生我執も断除できない。我執は我見に依って存在するからであり、我見あれば我執あるが故である。
原文:分別の我見は、現在世の外縁の力の故に、身と倶にせず。要に邪教及び邪分別を待ちて、然る後に方に起こる。故に分別と名づく。これまた二種あり。一には邪教の説く所の蘊相を縁とし、自心の相を起こして、分別して我と為す。これを我見と名づく。二には邪教の説く所の我相を縁とし、自心の相を起こして、分別して我と為す。これを我見と名づく。かくの如き二種の分別我見。
釈:我見の第二種は分別我見であり、これも意識の我見である。この種の我見は後天的な生活環境の熏染によって出生するもので、五蘊身と共に出生するものではなく、五蘊身に伴って存在するものではない。他人の誤った教導に従って初めて具わり、かつ誤った分別を生じて初めて意識の我見が具わる。然る後に意識の我見が更に意根を熏染し、意根の我見・我執を増長させる。
分別我見もまた二種に分けられる。一つは他人の五蘊に対する不正確な教導を縁とし、「これが即ち色蘊、これが即ち受蘊・想蘊・行蘊・識蘊である。これが私の色身相、これが私の受覚相、これが私の認知相、これが私の思想観念、これが私の決定、これが私の行いである」と説くことにより、これらの機能作用が悉く私の色受想行識蘊であると見做す。これを分別我見と称する。
第二種の分別我見は、他人の我相に対する誤った教導を縁とし、「これが即ち私である。私はこのようなものである」と説くことにより、これら一切の相を悉く私と見做し、心中に我相が生じ、我見が具わる。これが説かれる二種の分別我見の内包である。
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