衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月04日    木曜日     第1開示 合計1676開示

大乗顕識経(五)

したがって、小乗の阿羅漢の教えは究極の法ではなく、一時的に修学するに過ぎない。大乗仏法を学ぶ菩薩である私たちは、小乗仏法を避けがたく修証しなければならないものの、涅槃の道を歩まず、自ら成就した後もさらに他者を利する、これが菩薩の発心である。菩薩の心量は広大であり、自らを度するだけでなく、自らと同じく輪廻の苦しみを受けるすべての衆生を度し、彼らを同様に究極の解脱に至らしめる。これこそが大心の菩薩のなすことであり、ゆえに菩薩は大心の衆生とも呼ばれる。

「すでに流転する生死の有の苦を断った」とは、阿羅漢たちがすでに三界に流転する生死の苦を断ち切ったことを意味する。「有」とは欲界有・色界有・無色界有を含み、すなわち欲界には欲界の法があり、色界には色界の法があり、無色界には無色界の法がある。この三界の「有」はすべて苦である。三悪道だけが苦なのではなく、私たち人道も苦であり、では天人はどうか?彼らも同様に苦を有している。「楽」の中に苦はないのか?楽の中にも苦があり、しかもこのいわゆる「楽」そのものが一種の苦であり、楽の後もまた苦である。仏の説く苦には、苦苦(くく)・行苦(ぎょうく)・壊苦(えく)の三種類がある。天人は苦苦はないが、行苦と壊苦はなお有しており、彼らのその楽は永久のものではなく、留めておくことができず、いずれ消え去るからである。この種の苦を「行苦」と呼ぶ。楽の感受が消滅することを「壊苦」と呼ぶ。特に臨命終時、天人には五衰相(ごすいそう)が現れる。第一に身体が臭穢(しゅうえ)となる。第二に花冠が萎(しぼ)む。第三に衣が塵埃(じんあい)に落ちる。第四に両腋(りょうえき)に汗をかく。天人の身体は臭穢(しゅうえ)耐え難きものとなり、近づこうとする天人は一人もおらず、皆避けて遠ざかる。天上の宝座に座っていられなくなり、頭上(ずじょう)の花冠も枯れ萎(しお)れ、もともと衣服は清浄で永遠に塵を落とさなかったが、今や衣服には塵がつき、両腋(りょうえき)にも汗の臭いが生じる。これらの現象が現れた時は、天人の命がまもなく終わろうとしていることを示し、彼は苦しみを受けるところへと赴(おもむ)く。これを天人の「五衰相現(ごすいそうげん)」と呼ぶ。この三界における生死の有の苦を、阿羅漢はすでにことごとく断じ尽くし、未来において再び生死の苦受を受けることはなく、再び三界に生を受けることはない。

「正しい智力をもって、善く衆生の心の趣くところを知る。」阿羅漢は苦・集・滅・道の四聖諦(ししょうたい)の法を修行し、解脱の智慧を得て、一切智(いっさいち)を具足する。この智慧をもって、衆生の心行(しんぎょう)が結局どこへ趣(おもむ)くかを、ありのままに観察することができる。衆生が貪り喜び楽しむ法を見て、衆生の命終わるとき六道のいずれの道に趣くかを知ることができ、また衆生が解脱を得て無余涅槃(むよねはん)に入ることができるかどうかをも知ることができる。大多数の衆生の心は三界の世間法に貪着(とんじゃく)しており、未来において世間法の束縛を脱することは不可能で、ことごとく六塵(ろくじん)の束縛を受け、六道に趣き、世俗の五陰(ごおん)に趣き、六塵(ろくじん)の色・声・香・味・触・法に趣き、生死の輪廻を出ることはない。

——生如法師の開示
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「大乗広百論釈論」巻二

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