衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月04日    木曜日     第2開示 合計1677開示

因果の法則

出家した沙弥が出家した老僧を嘲笑すると、それほど大きな悪報を受ける。では、在家者が出家者を嘲笑したら、どのような悪報を受けるべきか。在家者が出家者の説法を嘲笑したら、どのような悪報を受けるべきか。在家者が出家者の説法を誹謗したら、どのような悪報を受けるべきか。在家者が悟りを得た出家者を嘲笑したら、どのような悪報を受けるべきか。在家者が悟りを得た出家者の説法を嘲笑したら、どのような悪報を受けるべきか。在家者が悟りを得た出家者の説法を誹謗したら、どのような悪報を受けるべきか。

因果は一般人が推し量れるものではない。もし慢心を持ち、他人を嘲笑することを好む者がいれば、相手が誰であれ悪報がある。もし嘘をついて他人を騙すことを好み、矛盾したことを言い、妄語と綺語を弄する、つまり正しくないことを言う者がいれば、相手が誰であれ悪報がある。もし他人を叱責する(父母や師匠を除く)ことを好み、尊卑も長幼の別もなく、自分の才能をひけらかす者も悪報を受ける。

要するに、身・口・意による十の不善業には、いずれも悪報がある。したがって仏法を学ぶ者は因果を理解し、戒律を守り、身・口・意の行いを護り、善悪の区別を識別し、努力して悪を断ち善を修めるべきである。心性が転じ、聖賢に近い心性になって初めて、聖賢となる機縁が得られる。聖賢となる前提条件は、聖賢に近い心性を備えていることであり、そうして初めて聖賢となる資格が得られるのである。

仏様のような徳をお持ちの方なら、完全に阿羅漢聖者を「焦芽の敗種」と言うことができる。しかし、修行の証りが阿羅漢に及ばない者は、たとえ誰であれ、そのように言ってはならず、言えば必ず悪報を受ける。凡夫の善根は阿羅漢の一毛にも及ばず、阿羅漢を「焦芽の敗種」と誹謗する資格は全くない。証拠があってもいけないし、事実であってもいけない。必ず悪報がある。在家者が普通の出家者について言及することもならず、それにも悪報がある。徳の高い者は徳の低い者について言うことができ、戒律を持つ者は戒律を持たない者について言うことができ、先に戒を受けた者は後に戒を受けた者について言うことができる。戒とは即ち徳である。出家戒を持つことは徳であり、菩薩戒を持つことは徳であり、敢えて出家することは徳であり、世俗を捨てて出家できることは徳である。修行と証りがあれば、なおさら徳である。修行の証りが高ければ徳も高く、徳が低い者は言うことができず、徳のない者は尚更言ってはならない。そうでなければ悪報は軽くない。

——生如法師の開示
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意識の証果と明心はただの化城に過ぎません

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