意識が清明な状態において、人は意識的な制御により、心の働きと言動がより文明的で品行方正となり、理性と教養を備え、端正な振る舞いを示します。これに対し、意識が朦朧とした無制御状態では、両者の表現は極めて大きな隔たりを見せます。何故このような差異が生じるのでしょうか。それは意根(マナス)と意識(マノヴィジュニャーナ)の心所(心の作用)に大きな差があるためです。意識は六塵(色・声・香・味・触・法)の境界において微細な分別をなし、比較的聡明で自己の利益を弁え、人前での適切な振る舞いを知っています。一方、意根は六塵の境界を明瞭に分別できず、習気(習慣的傾向)が強く、頑固で自己にとって有利な表現方法を知りません。このため、催眠やアルコールによる麻酔状態で意識が朦朧とすると、意識は意根と同様の状態に近づき、意根を制御できず自己表現を失い、意根の本性が露わになります。これにより覚醒時とは大きく異なる様相が現れ、様々な醜行が現れます。
個人の内面世界とは即ち意根の心所の働きを指し、意識の表面的な心行によって覆い隠されることがあります。意根の心行を覆うことを「偽装」と称し、意識と意根が一致しない状態を「虚偽」と呼びます。意識のみに工夫を凝らしても効果薄く、転識得智(識を智慧に転じる)を成した菩薩は、意根が平等性智に転じ、煩悩を断じています。仮に催眠やアルコール麻酔を施しても、その意根は依然として本来のままで覚醒時と大差ありません。意根こそが人の根本をなすもので、真の品行と徳性を表します。意識単独の表現は真の徳性とは言えません。
覚醒時には意識が意根の無智を覆い隠せますが、中有(バルド)の段階で意識が微弱化すると、もはや意根を覆い隠し制御することができず、意根の無明・愚痴・煩悩が遮られることなく顕現します。最終的に意根の無明煩悩によって胎生を受け、来世の無明煩悩を継続させます。意識が証果明心(悟りの果実を証し心を明らかにする)を得ても、中有においてはその智慧を保持できず、証果明心を得ていない意根は無明を現行させ、我見・我執の煩悩が深く重くなります。結局、意根の我見我執煩悩によって胎生を受け、来世の我見我執を継続し、生死を輪廻します。故に真に智慧ある者は、真実の我見断絶と明心を求めねばなりません。意識的理解に留まるべきではなく、それは化城(仮の安住地)に過ぎず、真の安息処・依止処ではないのです。
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