末那識の思念は、何によって思念を起こすのでしょうか。それは末那識が記憶した事柄をより深く心に留め、解決を求める重要な事柄を思惟するからに他なりません。一切の法は末那識の念によって生じ、末那識が阿頼耶識を念じることで調和が生まれ、末那識の思念する法が顕現します。末那識が念じなければ、阿頼耶識は関与せず、六識も生起せず、いかなる問題も解決されません。意識が念じ、想い、思惟する法、そして了別する法は、すべて末那識の念によって引き起こされるものであり、末那識の念がなければ意識は生起せず、ましてや他の心の作用などありえません。
時に、意識が生起後に特定の法を思念することもありますが、これらの想念が末那識に熏習されず、末那識が念じなければ、意識の思念する法は成就しません。例えばお経を暗誦する際、意識が熟達していても末那識が心に刻まなければ、意識は暗誦できず、暗誦できたとしてもそれは単なる追憶に過ぎません。末那識が記憶しなければ、意識は追憶できません。意識の追憶は末那識によって導かれ、末那識が経典の内容を導けなければ意識は誦経できません。もし末那識が誦経に興味を持たなければ、意識は暫く誦経するだけで続かず、心は散乱します。末那識は五識よりも機動性に富み、意識よりもはるかに柔軟で、万法を現起させる原動力です。そのため、その機能と作用は五識をはるかに超越し、意識をも凌駕していなければ、この働きを成し遂げることはできません。
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