あることを頻繁に行い、習慣化すると、後に類似の事態に遭遇した際、無意識のうちに行うようになる。これを習気と呼ぶ。習気は意根にあり、意根が習慣的に行うことには習気が現行する。意識は意根の習気にしばしば気づかない。習気は良き習気と悪しき習気に分けられ、悪しき習気は無明の煩悩に属する。意根には無始劫以前から無明の煩悩が存在し、これを無始無明と呼び、種子を持たない。しかし意根には無始劫以前に煩悩習気は存在せず、五陰身の造作がなかったため、習気を養うことができなかったのである。後に五陰身が生じた後、意根は五陰身を利用して絶え間なく無明の煩悩を現行させ、それによって習気が形成され、造作された無明の煩悩が種子を形成した。したがって習気には種子があるが、無始無明には種子がない。
五陰身は生々世々にわたり世俗界で活動する中で、絶えず無明を増減させ、無明習気は強化と緩和を繰り返す。よって修学の過程で断ずべき一切の無明煩悩は、主として意根の煩悩を断つことに重点が置かれる。意根の煩悩が断たれれば、意根の煩悩習気および六識の枝葉的な煩悩はそれに伴い消滅する。実際の修行過程では、意識が先に煩悩を降伏・断除する。なぜなら意識は道理を理解するのが速く、正しい理を明らかにすれば自心を修証できるが、意根は煩悩が深重で道理を理解するのが遅く、自己を修正することが困難であるためである。したがって意根が煩悩を降伏・断除しなければ、意識の煩悩が断たれた後も、再び意根に依って生じる。修行とはすなわち、意根の全ての無明を断ち切り、意根の明を増長させることである。無明が断ち切られ、明が極限に達すれば、仏道は成就する。
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