衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月07日    日曜日     第1開示 合計1681開示

三種の須陀洹

楞伽経原文:仏は大慧に告げたまわく、三種の須陀洹あり。須陀洹果に差別あり。何をか三となす。下・中・上を謂う。下なる者は極めて七有生を重ね、中なる者は三・五の有生を経て般涅槃し、上なる者は即ち彼の生にて般涅槃す。此の三種に三結あり。下・中・上なり。何をか三結となす。身見・疑・戒取を謂う。是れ三結の差別なり。上上に昇進して阿羅漢を得る。

釈:仏は大慧菩薩に告げたまわく、三種の須陀洹あり、果位に差別あり。何れの三種ぞ。上中下の三種なり。下種の品位の須陀洹は、多くとも七度の生死を経て即ち般涅槃す。中種の品位の須陀洹は、更に三度五度の生を受けて般涅槃す。上種の品位の須陀洹は当生にて即ち般涅槃す。此の三種の須陀洹人は断ずる結縛三種あり、上中下の三種に分かたる。即ち有身見(身見)・疑い・戒禁取(戒取)の三種の結縛なり。此の三種の結縛は絶えず昇進し、断除が次第に徹底すれば、即ち阿羅漢果を証得するなり。

我見を断じて須陀洹果を証得する者は皆、三結の縛を断除せねばならず。結縛を断除する程度の異なるにより、須陀洹の品位は同じからず、般涅槃に至る時間も同じからず。然らば此の三種の結縛は意識の断ずる所か、或いは意根の断ずる所か。意識の結縛を断つのか、或いは意根の結縛を断つのか。上品の須陀洹が当生にて即ち阿羅漢となり進んで般涅槃する場合より見れば、必ずや意根の結縛を断除したるに相違なく、当然意識の結縛も亦断たる。二つの識の結縛を共に断じ尽くして初めて我見は断尽し、我執等の煩悩も断尽して、般涅槃し解脱を得るなり。

各人の意識・意根の煩悩結縛の軽重程度同じからず、これにより我見の軽重程度も同じからず、加之各人が五蘊を観行する深浅の程度も亦同じからず。然らば我見を断つ時、断除する三結の程度も同じからず、得る解脱の智慧も同じからず、品位も同じからず、三界を解脱する時間の長短も同じからず。解脱とは当然意根の解脱なり。生死は意根の一念の無明によって引き起こされる。結縛を断除するには、単に意識を断除するのみならず、更に意根の結縛を断除せねばならず。意根の結縛が断尽すれば、我見は断尽し、我執も断尽し、再び生死輪回を主導すること無かるべし。

——生如法師の開示
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